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藤堂高虎が7人の主君を変えた真相|元教師が史実から読み解く変節漢論争

こんにちは、なおじです。

2026年大河ドラマ「豊臣兄弟!」第18話「羽柴兄弟!」に、ついに藤堂高虎が登場しました。

長身で豪快、しかし主君を次々と変えた男。「変節漢」として語られることが多い高虎ですが、果たして本当にそうなのでしょうか。

社会科教師として35年、戦国時代を教え続けてきたなおじが、史実をもとに藤堂高虎の生涯と「主君を変えた真相」を読み解いていきます。

この記事でわかること

  • 「豊臣兄弟!」18話に登場した藤堂高虎の人物像
  • 藤堂高虎とは何をした人か(生涯の流れ)
  • 7人(以上)の主君を変えた理由と、その評価
  • 「築城の名人」と呼ばれる理由と代表的な城
  • ドラマの高虎描写と史実の違い
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目次

豊臣兄弟!18話に登場した高虎とは

藤堂高虎鉛筆画

家臣選抜試験に現れた大男

第18話「羽柴兄弟!」では、秀吉(池松壮亮)が北近江を拝領し、長浜城を築いて城持ち大名となります。

城下の統治を任された小一郎(仲野太賀)は、人手不足に悩んだ末、竹中半兵衛(菅田将暉)の助言を受けて「家臣選抜試験」を実施することに。

そこに現れたのが、石田三成(松本怜生)や藤堂高虎(佳久創)らです。

個性的な若者たちが集まる中、高虎は最終試験に残ります。

俳優・佳久(よしひさ)創さんが演じる高虎は、史実どおりの「大柄で豪快な武将」として描かれており、視聴者の反響も大きかったようです。

👉関連記事:豊臣兄弟18話!羽柴兄弟と家臣団選抜試験を史実で検証

史実の登場時期と照合すると

ここで少し歴史の話を。

実際に藤堂高虎が豊臣秀長に仕え始めたのは、天正4年(1576年)ごろとされています。

第18話の舞台は元亀元年〜3年(1570〜1572年)ごろから天正元年(1573年)の小谷城落城あたり。

ドラマでは高虎の仕官を「長浜城主・秀吉が弟・小一郎のもとへ」という形で描いています。

ドラマでも史実でも、高虎が秀長に仕える前にはいくつかの主君を転々としています。

たとえば浅井家臣→磯野員昌→織田信澄といった遍歴があり、秀長との出会いは”放浪の果てに見つけた理想の主君”という文脈で語られることが多いのです。

ドラマは「選抜試験」という演出で、秀長と高虎の出会いを劇的かつわかりやすく描いた、と見ると面白いですね。

👉関連記事:豊臣秀長が大河ドラマ主役の理由|歴史的役割を解説【2026年大河】

藤堂高虎とは何者か|生涯をざっくり解説

足軽から32万石大名へ

藤堂高虎は、天文25年(1556年)、近江国犬上郡(現・滋賀県甲良町)に生まれました。

父は在地の土豪・藤堂虎高。

決して裕福な家柄ではなく、若い頃は文字どおりの「食い扶持を探す武士」として各地を転々としています。

最終的には伊予今治藩主(20万石)、のちに伊勢津藩初代藩主(32万石)という大大名にまで出世しました。

足軽から32万石。

この一点だけ見ても、いかに並外れた人物かがわかります。

生涯の3つのフェーズ

高虎の生涯は大きく3つに分けて考えると整理しやすいです。

フェーズ時期内容
① 模索期1556〜1576年頃浅井長政→磯野員昌→織田信澄など転々とした青年時代
② 飛躍期1576〜1595年頃豊臣秀長に仕え、武将・城郭技術者として頭角を現す
③ 完成期1595〜1630年徳川家康に信頼され、伊勢津藩祖として君臨。74歳で没

社会科の授業でよく言うのですが、歴史上の人物は「どの時代に生まれたか」と「誰と出会ったか」で人生が大きく変わります。

高虎の場合、その転換点は間違いなく「豊臣秀長との出会い」でした。

藤堂高虎が主君を7人以上変えた真相

何人の主君に仕えたのか

有名な「主君を7度変えた男」という評ですが、実は数え方によって6人だったり10人超だったりします。

なおじが整理した主な主君遍歴はこうなります。

主君時期の目安備考
浅井長政1570年頃〜1573年姉川の戦いで武功
阿閉貞征(あつじ さだひろ)1573年頃浅井旧臣の短期仕官
磯野員昌(いその かずまさ)1574年頃80石で仕えるも離脱
織田信澄1575年頃恩賞への不満から離脱したという逸話
豊臣秀長1576〜1591年約15年。人生最大の転換点
豊臣秀保1591〜1595年秀長の後継・早世で高虎は一時出家
豊臣秀吉1595〜1598年慶長の役で活躍
徳川家康1600年〜関ヶ原以降の乗り換えで有名
徳川秀忠・家光〜1630年幕府重臣として70代まで活躍

この遍歴を見て「落ち着きがない」と感じる人もいるでしょう。

えっ?でも、よく数えると前半の4人は合計でも5年もない。

後半の秀長配下の15年が「本当の藤堂高虎の時代」といっても過言ではありません。

「変節漢」か「戦略家」か、なおじの見解

結論から言います。

なおじの見立てでは、藤堂高虎は変節漢ではなく、時代の変化を読んだ合理的な戦略家でした。

理由はこうです。

戦国時代は主君が突然討たれ、家が断絶することが日常茶飯事。

浅井長政が滅んだように、仕えた家が突然消滅することもあります。

その都度「次の主君を探すこと」は、現代で言えば勤めていた会社が倒産して転職を繰り返すようなもの。

「七度主君を変えねば武士とは言えぬ」という言葉が高虎の名言として広まっていますが、この言葉の出典は実のところ曖昧で、史料的な裏付けが明確ではありません。

本人が言ったかどうかは、なおじとしては慎重に見ておきたいところです。

一方で確実に言えるのは、高虎は秀長という「生涯の主君」に出会ってから、完全に落ち着いたということです。

35年教師をやってきて思うのですが、仕事を転々としていた人間が「本物の上司」に出会った途端にガラッと変わるケースって、本当にあるんですよね。

高虎のパターンがまさにそれだった気がします。

👉関連記事:前田利家と徳川家康の関係性を深掘り!逸話と歴史的背景を解説

築城の名人と呼ばれる理由

高虎が手がけた主な城

藤堂高虎は築城の名人としても歴史に名を残しています。

高虎が関わった城は実に多く、主なものを挙げるとこうなります。

城名現在地特徴
今治城愛媛県今治市海に面した「海城」。高石垣が特徴
津城三重県津市藩庁。津市のシンボル
伊賀上野城三重県伊賀市高石垣として全国屈指の高さ
膳所城滋賀県大津市琵琶湖に浮かぶ水城
篠山城兵庫県丹波篠山市徳川政権の西国抑えとして構築
江戸城(普請参加)東京都幕府からの普請命令で参加

これだけ多くの城に関わった武将は、日本の歴史でもほとんどいません。

👉関連記事:太田道灌の江戸城築城|場所・構造・徳川との違い

高虎の築城思想とは何か

高虎の築城で特徴的なのは、「防御性と政治性の両立」です。

要塞として敵を弾く機能だけでなく、城下町を見据えた政庁機能を持たせることを重視しました。

今治城は海を堀代わりにした「海城」で、水軍の拠点としても機能した設計。

また石垣の高さへの執着も特徴で、伊賀上野城の石垣高は約30メートル。これは日本一の高石垣として知られています。

なおじが地理・地形を30年教えてきて思うのは、「城の設計を見れば、その武将の発想力がわかる」ということ。

高虎の城は例外なく「この地の地形をどう活かすか」を徹底して考え抜いた跡が見えます。

そこが純粋に面白い。

👉関連記事:墨俣一夜城の史実と伝説|秀吉の一夜城は本当か

ドラマの高虎像と史実のギャップを読む

「選抜試験」という演出の意味

豊臣兄弟!第18話で描かれた「家臣選抜試験」は、小一郎(秀長)が有能な若者を集めるための試験として演出されていました。

しかし史実では、このような「公開試験」の記録は残っていません。

石田三成が秀吉に見出された「三献茶」の逸話のように、個別のエピソードが歴史書に残る形が多い時代です。

ドラマとしては「石田三成と藤堂高虎が同時に登場する」という整理のされ方をしたのだと思います。

視覚的にわかりやすく、かつ2人のキャラクターの個性を対比させる演出として、なおじは「なるほど」と感じました。

史実の秀長×高虎の関係

史実における秀長と高虎の関係は、ドラマ以上に深い主従関係です。

高虎は秀長の死(1591年)の際に深く嘆き、出家して「道休」と号したと伝わります。

「主君を7人変えた変節漢」というイメージとは正反対の、きわめて情義に厚い一面です。

秀長という主君が、高虎の持つ粗暴さや反骨心を、才能に変えていったのかもしれません。

35年間、教師として生徒を見てきたなおじには、この構図がよくわかります。

素行の荒れた生徒も、「本物の担任」に出会うとガラリと変わることがある。

高虎と秀長の関係は、そういう「本物の師弟関係」だったのでしょう。

ドラマがこの関係をこれからどう描いていくか、今後が楽しみです。

👉関連記事:豊臣兄弟!秀長の真相|史実と全話感想で読み解く補佐役の実像【ハブ記事】

藤堂高虎に関するよくある疑問【Q&A】

Q1:藤堂高虎は「七度主君を変えた」というのは本当ですか?

「七度」という数字は、あくまでも象徴的な表現として広まったものです。

実際の主君の数え方は研究者によって異なり、5人〜10人超まで幅があります。

短期間しか仕えなかった主君を含めるかどうかで変わるため、「正確に何人か」という問いへの答えは一概には言えません。

重要なのは、秀長配下の15年間が高虎の人生の中心だったという事実です。

Q2:藤堂高虎はなぜ徳川家康に乗り換えたのですか?

関ヶ原の戦い(1600年)の前後、高虎は家康側に与しました。

豊臣政権内での五奉行(石田三成ら)との確執があったこと、また秀吉没後の豊臣政権の混乱を見て、徳川政権の安定性を見極めたと考えられています。

「変節」というより「次代の覇者を正確に読んだ判断」として評価する歴史家も多くいます。

Q3:藤堂高虎と石田三成の関係はどうだったのですか?

二人は豊臣政権下で激しく対立した関係です。

三成が「文治派」の官僚として政権運営を担ったのに対し、高虎は「武断派」に属し、加藤清正らとともに三成への反感が強かったとされています。

「豊臣兄弟!」で同時登場したのは象徴的で、これからの対立をどう描くかが注目ポイントです。

もしかして、『対立しない』という演出もあるのでしょうか?

Q4:藤堂高虎ゆかりの地はどこですか?

主なゆかりの地は、出身地の滋賀県甲良町(ふるさと館「和の家」)、藩庁を置いた三重県津市(津城跡・三重県総合博物館)、そして今治城(愛媛県今治市)です。

津市では「津の街のヒーロー」として今も顕彰されており、観光スポットも整備されています。

Q5:藤堂高虎は何歳で亡くなりましたか?

慶長5年(1630年)に74歳で没しました。

戦国武将としては長命の部類に入ります。

晩年まで徳川家光(三代将軍)に仕え、幕府の重臣として活躍し続けました。

「生き残りの名人」という評も、74歳まで現役を続けた生涯が証明しています。

筆者紹介|なおじ

なおじは元社会科教師として教育現場に35年間携わり、指導主事を5年、校長を11年務めました。退職後もボランティアで子どもたちに学習を教えています。

社会科・歴史を長年教えてきたので、時代背景や史実との比較が得意分野です。指導主事として授業研究にも携わり、教え子からは「歴史が面白くなる先生」と呼ばれていました。

現在は8つのブログでドラマ芸能政治歴史スポーツ学び書評を書いています。

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