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太田道灌の江戸城築城|場所・構造・徳川江戸城との違いを元教師が整理

こんにちは、なおじです。

「江戸城を築いたのは徳川家康」——そう思っている方、実は多いのではないでしょうか。

でも違うんです。

徳川家康が江戸に入るより約150年も前、1457年に太田道灌が江戸城を築いています。

では、道灌が築いた江戸城とはどんな城だったのか。

場所はどこで、構造はどうで、後の徳川江戸城とはどう違うのか。

社会科教師として35年間、歴史を教え続けてきたなおじが、史料をもとに整理します。

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この記事でわかること

  • 太田道灌がいつ・どこに江戸城を築いたか
  • 道灌時代の江戸城の構造(子城・中城・外城)
  • なぜ道灌は「江戸」を城の場所に選んだか
  • 徳川時代の江戸城との規模・構造の違い
  • 道灌の江戸城が現在の皇居とどうつながるか
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目次

1457年、道灌が江戸城を築いた経緯

築城のきっかけは古河公方との対立

太田道灌が江戸城を築城したのは1457年(長禄元年)のことです。

『徳川実紀』にも「これが江戸城の始まりである」と記されており、築城の年については研究者の間でもおおむね一致しています。

築城前、道灌はその南にある品川に拠点を構えていました。

なぜ江戸に城を移したのか。

最大の理由は、敵対する古河公方(こがくぼう)・足利成氏(しげうじ)が下総方面に勢力を拡大していたからです。

道灌が仕える扇谷上杉氏は、古河公方勢に対抗するために関東東部への備えを強化する必要があった。

江戸はその最前線に位置する、戦略的に重要な場所でした。

「江戸氏の館跡」に築かれた城

江戸の地には、もともと江戸氏という武士が12世紀ごろから館を構えていました。

道灌はその館跡、武蔵国桜田郡荏原郷(現在の東京都千代田区周辺)に、本格的な城郭を築き上げたのです。

ゼロから切り開いたわけではなく、すでに「拠点」としての歴史を持つ土地を選んでいる——そこに道灌の地形を見る眼力が感じられます。

なおじは社会科の授業でよく生徒に言っていました。

「城は、強い人が気まぐれに好きな場所に建てたんじゃない。川・丘・港、地形を最大限に生かした場所に建てるんだ」と。

道灌はまさにその手本です。

道灌時代の江戸城の場所と地形

現在の皇居・千代田区周辺がその跡地

道灌が築いた江戸城の場所は、現在の皇居(東京都千代田区)の本丸・二の丸あたりと考えられています。

ただし当時の地形は、今とはまったく違います。

現在の皇居外苑・日比谷・新橋あたりまでは「日比谷入り江」と呼ばれる海でした。

JR東京駅からJR有楽町駅にかけては「前島」と呼ばれる半島状の陸地が突き出しており、その周囲の湿地帯には、ススキが果てしなく広がっていたといわれます。

現代のコンクリートジャングルからは想像もつかない光景ですね。

海と川に囲まれた天然の要害

道灌が江戸を選んだ地理的な理由は「守りやすく、攻めにくい」点にあります。

城の東側は低湿地と海(日比谷入り江)南側には平川が流れており、西側は武蔵野台地の崖地形が迫っていました。

つまり、天然の堀が三方をふさいでいたわけです。

さらに道灌は、城の東を流れる平川の流れを変えて北に向け直し、その河口に新たな港を作るという、当時としてはとてつもない土木工事(後の日本橋川の原型)を実施しています。

これにより、江戸は「戦の城」であると同時に「港町・経済拠点」にもなっていきました。

城と町づくりを同時に進める——この発想は、後の徳川家康にも受け継がれることになります。

👉関連記事:太田道灌の生涯と最期|悲劇の武将と呼ばれる理由

道灌時代の江戸城の構造

「子城・中城・外城」の三重構造

道灌が築いた江戸城の構造については、室町時代の禅僧・万里集九(ばんりしゅうく)が著した『梅花無尽蔵(ばいかむじんぞう)』に、次のように記録されています。

「其塁営の形をなすは子城(ねじろ)と日、中城と日、外城と日ひ、およそ三重」

つまり道灌の江戸城は、三つの区画(郭)からなる城だったということです。

『日本城郭大系』では、この「子城・中城・外城」を、後の徳川時代の**「本丸・二の丸・三の丸」**にそれぞれ対応するものと見ています。

3つの郭の間には高低差が5〜10m程度あり、それぞれの間に「道灌堀・三日月堀・蓮池堀」などの空堀が設けられていたとされています。

「静勝軒」という道灌の館

城内には「静勝軒(せいしょうけん)」と呼ばれる、道灌の望楼(ものみやぐら)風の館がありました。

道灌はここに京・鎌倉の禅僧や歌人・連歌師たちを招き、詩文を通じて交流を深めています。

武将でありながら文化人でもあった道灌らしい場所です。

そのほか、物見櫓・倉庫・厩(うまや)なども城内に設けられていたことが記録に残っています。

教師時代に城の話をすると、生徒はよく「城の中って何があるの?」と聞いてきました。

「倉庫も厩もあるし、ちょっとした町みたいなものだよ」と答えると「えっ、すごい!」という顔になる。

道灌の江戸城も、立派な「機能する拠点」だったんです。

道灌城と徳川江戸城の違いを比較

太田道灌

規模がまるで違う

道灌の江戸城と、後の徳川家康が整備した江戸城を並べると、その差は一目瞭然です。

項目道灌時代の江戸城徳川時代の江戸城
築城年1457年(長禄元年)1590年入城・1603年本格整備開始
規模三重の郭(中世城郭)東西約5km・南北約3.9km(日本最大)
天守望楼風の「静勝軒」5層6階の大天守(寛永度天守・1638年完成)
石垣ほぼなし(土塁が中心)伊豆石・花崗岩による本格石垣
空堀中心内濠・外濠の水堀(天然地形+改変)
城下町港町・市場が自然発生天下普請で計画的に整備
工事主体道灌個人(扇谷上杉の家臣)諸大名120家による「天下普請」

徳川家康が1590年に江戸に入ったとき、そこにあった道灌の城(北条氏が改修したもの)は、「城内に板葺き屋根の建物しかなく、台所は茅葺きで土間だった」と後世の記録に残っています。

100年以上前の城ですから、当然といえば当然ですが。

「設計思想」は受け継がれた

規模や構造がまったく違うとはいえ、「江戸の地形を生かす」という発想は道灌から引き継がれたともいえます。

道灌が見出した「海・川・崖に囲まれた天然の要害」という江戸の地形的価値は、徳川家康もそのまま活かしています。

道灌が行った平川の流路変更も、家康時代に「道三堀・平川」として発展させられました。

「基礎設計は道灌、増改築は北条、天下普請で完成させたのが徳川」——江戸城の歴史はそんな風に整理できます。

👉関連記事:享徳の乱「公方成氏と幕府・管領との争い」が戦国時代の幕を開けた

道灌の江戸城が現在の皇居とつながるまで

太田道灌

北条氏→徳川と城主が変わっても場所は変わらない

道灌が暗殺された1488年以後、江戸城は扇谷上杉氏のもとに入り、1524年には北条氏綱が城を攻略します。

以降は後北条氏の支城として機能しましたが、本城は小田原城だったため、江戸城の整備は最小限にとどまりました。

1590年、後北条氏滅亡後に徳川家康が入城。

ここから約35年をかけた「天下普請」による大改造が始まります。

徳川秀忠・家光の3代がかりで整備が進み、1638年(寛永15年)に一応の完成をみました。

江戸城→東京城→皇居という変遷

1657年(明暦3年)の明暦の大火で天守をはじめ多くの建物が焼失し、その後天守は再建されませんでした。

1868年(明治元年)、無血開城によって江戸城は明治新政府のものとなり、明治天皇が入城して「東京城」と改名。

以後は「皇居」として現在に至ります。

👉関連記事:勝海舟と江戸無血開城|戦わずに150万人を守れた理由

道灌が「江戸を選んだ」1457年から数えると、実に570年近くにわたって、この場所が日本の政治の中心地であり続けているわけです。

これはすごいことだとなおじは思います。

城跡に立って「ここが道灌の選んだ場所か」と想像するだけで、歴史の重みを感じませんか。

👉関連記事:太田道灌ゆかりの地ガイド|東京・川越・越生・伊勢原の史跡を歩く(記事執筆後リンク予定)

よくある質問(Q&A)

Q1. 太田道灌が江戸城を築いたのは何年ですか?

A. 1457年(長禄元年)です。

正確には前年の1456年(康正2年)に築城を開始し、翌1457年に完成したと伝えられています。『徳川実紀』にも「これが江戸城の始まり」と記録されており、現在の東京・皇居につながる城の出発点です。

Q2. 道灌の江戸城はどこにあったのですか?

A. 現在の皇居(東京都千代田区)の本丸・二の丸あたりに相当する場所と考えられています。

武蔵国桜田郡荏原郷に築かれたとされており、万里集九の記録『梅花無尽蔵』にも「子城・中城・外城の三重」の構造が記されています。

Q3. 道灌の江戸城に天守閣はあったのですか?

A. 後の徳川時代のような本格的な天守閣はありませんでした。

「静勝軒(せいしょうけん)」と呼ばれる望楼風の館(やかた)が道灌の居所として機能しており、禅僧や歌人を招いて詩文の交流を行う文化的な空間でもありました。天守閣が造られたのは徳川秀忠の時代(1607年)のことです。

Q4. 徳川家康はなぜ道灌の城を大改築したのですか?

A. 100年以上前に築かれた道灌の城(北条氏が改修したものも含む)は、天下の将軍家の居城としてはあまりにも貧弱だったからです。

当時の記録には「板葺き屋根と土間しかなかった」と残っており、天下普請による大規模改修が必要でした。ただし「江戸の地形を生かす」という基本コンセプトは道灌から引き継がれています。

Q5. 道灌の江戸城の遺構は今も残っていますか?

A. 現在の皇居東御苑などに残る石垣・堀・門の多くは徳川時代の遺構です。道灌時代の遺構そのものは地上にはほとんど残っていません。

ただし、城の立地(丘の上・川に挟まれた地形)は道灌が選んだ骨格をそのまま引き継いでいます。東御苑の「天守台」は徳川時代のものですが、丘の上に立って眺めると道灌が見た江戸湾の風景が想像できます

筆者紹介|なおじ

なおじは元社会科教師として教育現場に35年間携わり、指導主事を5年、校長を11年務めました。
退職後もボランティアで子どもたちに学習を教えています。

社会科・歴史を長年教えてきたので、城の地形・時代背景・史料の読み方が得意分野です。授業で「江戸城は誰が建てた?」と問うと、多くの生徒が「家康!」と答えます。「違うよ」と言うときのあの顔が、歴史を教える一番の醍醐味でした。

現在は8つのブログでドラマ芸能政治歴史スポーツ学び書評を書いています。

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