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有村次左衛門とマツ——桜田門外の変前夜の仮祝言と二首の和歌

令和8年7月26日 最終更新

有村次左衛門は、桜田門外の変で井伊直弼の首を討った薩摩藩士です。亡くなったのは数え年23歳、雪の朝。

その前夜、日下部伊三次の娘・マツと仮祝言を挙げ、二首の和歌を交わしたと伝えられています。次左衛門の死後、日下部家を継いだのは、兄の有村俊斎——のちの海江田信義でした。

次左衛門の歌にあるのは、春風に散る桜。マツの歌には、雲の上まで届く真心が詠まれています。

翌朝の襲撃を前に、二人は何を歌に託したのでしょうか。

社会科教師として35年間、桜田門外の変を教えてきたなおじも、この逸話を知ったときには言葉に詰まりそうになりました。「大老の暗殺」の一文のそばに、見送る人の歌が残っていたのです。

マツ
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目次

この記事のポイント

Q1. 有村次左衛門は、桜田門外の変で何をした人物?

襲撃に参加した唯一の薩摩藩士で、井伊直弼の首を討った人物です。その際に重傷を負い、事件当日に自刃。数え年23歳でした。

Q2. マツは有村次左衛門の妻? その後はどうなった?

日下部伊三次の娘で、次左衛門と事件前夜に仮祝言を挙げたと伝わる人物です。次左衛門の死後は、兄の海江田信義の妻として系譜資料に記されています。

Q3. 「春風に誘われて散る桜花」は、有村次左衛門の辞世?

仮祝言で次左衛門が詠み、マツが返歌したと伝えられる和歌です。これとは別に「磐鉄も」で始まる歌が辞世として紹介されているため、前夜の贈答歌と分けて読むと、それぞれの言葉が伝わります。

有村次左衛門とは——桜田門外の変に加わった薩摩藩士

桜田門外の変
桜田門外の変(茨城県立図書館蔵)

有村次左衛門は、幕末の薩摩藩士です。諱は兼清。

兄に有村俊斎と有村雄助がいました。俊斎は、明治まで生きた海江田信義のことです。

名前と兄弟関係を先に押さえると、事件後の日下部家の話も読みやすくなります。

有村次左衛門
井伊直弼に切りかかる有村次左衛門(国立国会図書館)
項目内容
名前有村次左衛門
読み方ありむら・じざえもん
諱兼清
出身薩摩藩
桜田門外の変での役割襲撃に参加し、井伊直弼の首を討った
兄有村俊斎〈海江田信義〉、有村雄助

この兄弟のうち、桜田門外の襲撃に加わったのが次左衛門。日下部家を継ぐのは、その兄・俊斎でした。

安政の大獄と、井伊直弼襲撃の背景

桜田門
桜田門付近

1858年、幕府は朝廷の勅許を得ないまま日米修好通商条約を結びました。将軍の後継者をめぐる対立も重なり、大老・井伊直弼は反対派への処罰を進めていく。

これが安政の大獄です。

吉田松陰や橋本左内らが処刑され、水戸藩の関係者にも厳しい処分。その弾圧への反発が、直弼襲撃の背景にありました。

桜田門外の変が起きたのは、安政7年3月3日。現在の暦では1860年3月24日にあたります。

雪の朝、江戸城へ登城する直弼の行列を、水戸浪士17人と薩摩藩士1人が襲った。計18人による襲撃でした。

水戸側が何を重んじ、幕府と対立したのか。その思想の入り口は、水戸学の記事でたどれます。

👉関連記事:水戸学 特徴 思想を5分で理解する入門ガイド

水戸学を形づくった人物から知りたい方には、藤田幽谷の歩みも手がかりになります。

👉関連記事:藤田幽谷と中期水戸学 🏯 ~古着屋の息子が江戸を震撼させた話~

水戸と彦根の対立を、井伊家の本拠地である彦根城から見直した記事はこちらです。

👉関連記事:水戸は、なぜ彦根の井伊直弼を討ったのか:建造時の姿を残す彦根城

薩摩藩士として参加し、直弼の首を討った

有村家

襲撃者のうち、ただ一人の薩摩藩士が次左衛門でした。薩摩藩が軍勢を率いて参加した事件ではなく、藩の方針とは隔たりのある行動です。

鹿児島の有村兄弟誕生地の紹介でも、藩が突出した行動を抑えるなか、兄弟が水戸側と井伊直弼打倒を図った経緯を説明しています。

直弼は襲撃の際に銃撃を受け、駕籠の中で負傷。浪士たちが迫り、次左衛門がその首を討ちました。

教科書では「井伊直弼が暗殺された」と短く記される場面です。けれど、実行した次左衛門も、その日のうちに命を失う。

数え年23歳。その若さを思うと、なおじは事件の結果だけを語って先へ進むことに、ためらいを覚えます。

マツと日下部家——父・伊三次を失った家族

マツは、日下部伊三次の娘です。資料には「まつ」「松子」という表記も見られます。

仮祝言の逸話では次左衛門の相手として登場し、のちには兄・海江田信義の妻として記録される人物。その父もまた、安政の大獄で命を失っていました。

日下部伊三次と安政の大獄

日下部伊三次は、伊三治とも記される薩摩出身の人物です。水戸の尊王攘夷派とも関わり、安政の大獄で捕らえられた。

その後、獄中で亡くなりました。

ベストセラーズの人物解説は、息子の裕之進も獄につながれ、その後に亡くなったことを紹介しています。

同記事には、日下部家が薩摩と水戸の浪士たちに密議の場を提供していたという説明もあります。父を失った家に、井伊直弼打倒を図る人々が集まる。その家と次左衛門のつながりが、仮祝言の逸話の背景でした。

吉田松陰が『留魂録』に記した言葉

吉田松陰は『留魂録』で、日下部伊三次の取り調べでの言動を、聞いた話として記しています。

伊三次は政治の欠点を挙げ、こう述べたという。

かくのごとくにては往先三五年の無事も保しがたし

このままでは、これから三年、五年の平穏も保てない——という趣旨です。

死罪を受けても悔いないと述べた伊三次に対し、松陰は次の言葉を残しました。

これ、われの及ばざるところなり。

「これは自分の及ばないところだ。」

死を前にした松陰が、伊三次の言葉にそこまでの敬意を寄せている。なおじが立ち止まるのは、この一節です。

マツの父は、松陰自身に「及ばない」と書かせた人でした。

この記述は、吉田松陰『留魂録』全文で読めます。

龍根録
留魂録

前夜の仮祝言と、交わされたと伝わる二首

次左衛門が前夜に仮祝言を挙げた話は、桜田門外の変にまつわる逸話として伝わっています。

長谷川ヨシテルさんによるベストセラーズの解説記事にも、祝言の経緯と二首の和歌が掲載されています。次左衛門と松子、それぞれの歌として紹介される二首です。

縁談を断った次左衛門と、前夜の祝言

同記事によれば、マツの母は次左衛門に娘を嫁がせ、日下部家を継いでほしいと願っていました。

しかし次左衛門は、決死の覚悟であることを理由に縁談を断り続けたという。

襲撃の前夜、別れの挨拶に訪れた次左衛門に、母は改めて承諾を求めます。そこで二人は祝言を挙げた——そう伝えられています。

翌朝には命を懸けた襲撃。その前夜に、家を継ぐ縁を結ぶ。

なおじには、この二つが隣り合っていることが切なく感じられます。先の暮らしを願う家族と、死を覚悟した次左衛門。その隔たりを、祝言の一夜が埋めようとしていたようにも読めるのです。

次左衛門の「春風にさそはれてちるさくらばな」

ベストセラーズの記事は、次の歌を次左衛門のものとして紹介しています。

春風に さそわれて散る桜花
とめてとまらぬ わが思ひかな

表記を「春風にさそはれてちるさくらばな」として紹介されることもある歌です。

大意は、春風に誘われて散る桜の花のように、止めようとしても止まらない私の思いよ、というもの。

「とめてとまらぬ」。

桜が散る姿よりも、なおじには、この繰り返しが残ります。死を前にした歌として読むと、短い言葉の中に別れの切なさがある。

「わが思ひ」は、襲撃への決意とも、目の前の相手への思いとも重ねて読める言葉です。授業でこの歌を紹介したとき、生徒たちが静かになったのを覚えています。

マツの「君がためつくす真心」

松子の歌として紹介されるのは、こちらです。

君がため つくす真心 天津日の
雲の上まで 匂ひゆくらん

言葉に沿って読めば、あなたのために尽くす真心は、天の日の雲の上まで美しく届いていくだろう、という響き。

「天津日」は天の太陽を表し、「匂ふ」には美しく映えるという意味もあります。

歌は「君がため」と始まり、最後は「雲の上まで」。尽くす真心を、高い空へ届ける言葉で結ばれています。

次左衛門が散る桜を詠み、マツは遠くまで届く真心を詠む。なおじには、この対照が二首のいちばん切ないところに感じられるのです。

散っていく桜と、その先まで届いてほしい真心。二首を並べると、片方だけでは見えなかった別れの姿が浮かびます。

仮祝言の歌と、辞世として紹介される歌

有村次左衛門には、仮祝言の歌とは別に、辞世として紹介される歌もあります。

HRプロの人物解説に掲載されているのは、次の一首です。

磐鉄も
くだかざらんや武士の
国安かれと思い切る太刀

国の安泰を願って振るう太刀なら、堅い岩鉄をも砕くのではないか、という強い調子。

前夜の二首が描くのは、散る桜と、雲の上まで届く真心。一方、こちらの歌には、武士の太刀が現れます。

仮祝言の贈答歌と、辞世として紹介される歌。どちらも次左衛門に結び付く歌ですが、前に出てくる言葉は違う。

なおじが前夜の二首に「辞世にも近い響き」を感じるのは、太刀の強さよりも、別れる二人の言葉が残っているからでしょう。

有村次左衛門の最後と、兄・雄助の結末

次左衛門は、直弼を討ったあと、その日のうちに亡くなりました。

兄の雄助も同じ年に命を失う。ただし、弟は江戸で自刃し、兄は薩摩へ送られた後に切腹を命じられています。

負傷から自刃まで——場所と死因

次左衛門は襲撃の際、彦根藩士に斬られて重傷を負いました。
ベストセラーズの解説は、倒れていた小河原秀之丞が、次左衛門を背後から斬ったと紹介しています。

負傷した次左衛門は、井伊直弼の首を持って現場を離れる。その後、遠藤胤統の屋敷門前で自刃したとされています。
場所は辰ノ口付近と伝えられ、死因を整理すると、襲撃時に負傷し、その後に自刃したという経緯です。

直弼の首を討った次左衛門。その直後には、自分も深い傷を負っていた。
数え年23歳の生涯は、事件の当日に終わりました。

有村雄助は、帰国後に切腹を命じられた

切腹

兄・雄助も、水戸側と連携して井伊直弼打倒を図った人物です。
しかし薩摩藩は、藩士が突出して行動することを抑えていた。兄弟の判断と藩の方針には隔たりがありました。

雄助は事件後、薩摩へ送られ、切腹を命じられます。
鹿児島の有村兄弟誕生地の紹介にも、兄弟の活動と雄助の最後が記されています。

弟は江戸で、兄は薩摩で。兄弟の死んだ場所を並べると、襲撃の場だけでは終わらなかった事件だとわかります。

薩摩がその後、倒幕へ向かう道筋をたどりたい方には、大久保利通の記事がつながります。

👉関連記事:大久保利通——盟友・西郷隆盛と袂を分かった男の倒幕への道

マツのその後と、日下部家を継いだ海江田信義

次左衛門の死後、日下部家を継いだのは、兄の有村俊斎でした。

マツは、その俊斎——海江田信義の妻として系譜資料に記されています。仮祝言の逸話のあとにも、マツと日下部家の歩みは続いていたのです。

有村俊斎と日下部家の継承

婚姻

弟の死後、その義理によって日下部家を継いだ兄・有村俊斎。
海江田信義の辞典解説には、日下部家の旧姓である海江田を名乗ったと記されています。

また、海江田家の系譜にあるのは、妻・まつと、その父・日下部伊三次の名。
次左衛門の兄とマツの婚姻が、日下部家の継承につながります。

幕末には薩摩藩士、明治には地方行政、元老院、貴族院、枢密院へ。
俊斎は海江田信義として、維新後も政治の仕事に携わりました。

生麦事件から明治の政治家としての歩みまで、信義自身の生涯はこちらの記事でたどれます。

👉関連記事:海江田信義とは何をした人物か|生麦から子爵への軌跡

次左衛門を失った日下部家に、兄の名前が残る。
なおじには、その「弟の義理で」という短い辞典の説明が、長く心に残ります。

次左衛門の直系と、兄弟の系譜を分ける

婚姻

次左衛門本人の直系子孫については、今回確認した資料では確かな系譜が得られていません。一方、兄・海江田信義とマツの婚姻は、系譜資料に記されています。

有村兄弟と日下部家のつながりを並べると、次の関係になります。

人物次左衛門との関係日下部家とのつながり
日下部伊三次マツの父安政の大獄で獄死
マツ〈まつ・松子〉仮祝言の相手と伝わるのちに海江田信義の妻として記録
有村次左衛門本人日下部家の婿となる仮祝言が伝わる
有村雄助兄次左衛門とともに井伊直弼打倒を図る
有村俊斎〈海江田信義〉兄次左衛門の死後、日下部家を継ぐ

海江田家の系譜は、次左衛門本人の直系ではなく、兄・信義から続く系譜です。

前夜の逸話から先へたどれるのは、日下部家を継いだ兄とマツの関係。桜田門外で終わった弟の生涯と、明治まで続いた兄の生涯が、この家で交わっています。

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よくある質問

有村次左衛門は何と読む?

「ありむら・じざえもん」と読みます。諱は兼清。
姓を除いた「次左衛門」の読みが「じざえもん」です。

有村次左衛門は何歳で亡くなった?

「23歳」は数え年での年齢です。生まれた年を1歳とし、正月を迎えるごとに1歳を加える数え方。
現在の満年齢で23歳だった、という意味とは区別されます。次左衛門は天保9年生まれで、1860年の桜田門外の変当日に亡くなりました。

海江田信義と有村次左衛門は兄弟?

海江田信義は次左衛門の兄です。もとは有村俊斎という名。
雄助も次左衛門の兄で、俊斎は雄助より年長にあたります。日下部家を継いだ「兄」は俊斎、事件後に薩摩で切腹した「兄」は雄助でした。

筆者紹介|なおじ

なおじ

なおじは、教育現場に35年間携わった元社会科教師です。指導主事を5年、校長を11年経験。

退職後も、ボランティアで子どもたちの学習を支えています。授業で何度も取り上げた桜田門外の変と、その前夜に伝わる二首。事件の年号だけでなく、そこに残った言葉も届けたい——そんな思いで歴史の記事を書いています。

現在は8つのブログでドラマ・芸能・政治・歴史・スポーツ・旅・学び・書評を書いています。

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