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桜田門外の変——有村次左衛門と妻・日下部松子の前夜の仮祝言・23歳の覚悟

有村次左衛門の名前は、桜田門外の変で「井伊直弼の首を挙げた男」として知られています。

しかし、変の「前夜」に何があったか——ご存じでしょうか。

死ぬことがわかっていながら盃を交わした、23歳の仮祝言。
その相手・日下部松子の父は、安政の大獄で命を落とし、吉田松陰に「自分には及ばない」と言わしめた男でした。

こんにちは、なおじです。

社会科教師として35年間、桜田門外の変を何度も授業で教えてきましたが、この仮祝言の話に初めて生徒たちに話したとき、教壇の上で思わず言葉に詰まりそうになりました。

今回は、桜田門外の変と有村次左衛門にまつわる、あまり語られない人間ドラマをお伝えします。

桜田門外の変(茨城県立図書館蔵)

この記事でわかること

  • 桜田門外の変が起きた理由と背景
  • 有村次左衛門がなぜ「首討ち役」に選ばれたか
  • 妻・日下部松子と父・伊三次の物語
  • 前夜の仮祝言で交わされた和歌(辞世の句)
  • 変後の最後・自刃の場所と死因
  • 兄・有村雄助の悲劇的な末路
  • 有村次左衛門の子孫と日下部家を継いだ海江田信義
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目次

桜田門外の変——なぜ幕末最大の暗殺は起きたか

井伊直弼に切りかかる有村次左衛門(国立国会図書館)

安政の大獄が生んだ激しい怒り

1858年(安政5年)、江戸幕府の大老に就任した井伊直弼は、勅許を得ないまま日米修好通商条約を締結しました。

さらに将軍継嗣問題で一橋派を押しのけ、反対派を徹底的に弾圧していきます。

これが安政の大獄です。

吉田松陰・橋本左内ら8名が処刑され、尊王攘夷派の百名以上が処罰されました。

水戸藩士たちの怒りは、頂点に達していました。

雪の桜田門——1860年3月24日の朝

桜田門付近

安政7年(万延元年)3月3日、旧暦の桃の節句の朝のことです。

現在の歴に換算すると1860年3月24日。

東京に季節外れの大雪が降っていました。

朝五つ半(午前9時過ぎ)、井伊直弼は総勢約60名の供を従えて、彦根藩上屋敷から江戸城に向けて登城の途中でした。

そこへ、水戸浪士17名と薩摩藩士1名、計18名が一斉に襲いかかります。

水戸浪士のひとりが放った弾丸が直弼の太ももから腰を貫通し、動けなくした——桜田門外の変の幕が上がった瞬間でした。

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有村次左衛門とはどんな人物か

薩摩から単身参加した北辰一刀流の使い手

水戸浪士17名の中に、一人だけ薩摩藩士がいました。

有村次左衛門(ありむらじざえもん)です。

薩摩藩生まれの彼は、北辰一刀流の使い手として知られ、剣の腕は浪士の中でも際立っていたといいます。

水戸藩士たちから「直弼の首を討つ」という最も重要な役割を任されたのも、その実力を認められていたからでしょう。

えっ、薩摩藩士が一人だけ?と思いますよね。

これは薩摩藩として公式に参加したわけではなく、あくまで有村個人の意志でした。

ところが薩摩藩の上層部は変の計画を「時期尚早」として支持しなかった——この判断が、後の兄・雄助の悲劇につながります。

23歳が井伊直弼の首を挙げるまで

井伊の駕籠が桜田門外で襲われた瞬間、有村は真っ先に斬り込みます。

動けなくなっていた直弼を駕籠から引きずり出し、刀で斬りかかった。

「しめたり!」

有村の叫び声とともに、大老・井伊直弼の首は落ちました。

有村はその首を刀の切っ先に貫き、何やら薩摩言葉で叫んだといいます。

その雄叫びを聞いた浪士たちは刀を納め、それぞれ引いていきました。

数え年23歳の青年が、幕末の歴史を動かした瞬間でした。

前夜の仮祝言——日下部松子との哀話

日下部伊三次——安政の大獄で命を落とした父

有村次左衛門の妻となったのは、日下部伊三次(くさかべいそうじ)の娘・松子でした。

日下部伊三次は元薩摩藩士でしたが、のちに水戸徳川家に出仕。

水戸藩の尊王攘夷派と深く結びついていた人物です。

1858年(安政5年)、安政の大獄で捕縛され、獄中で厳しい拷問を受けます。

冬の極寒の中でむち打たれ、全身の皮が裂け、体力が尽きて病没しました。

一説には毒殺ともいわれています。

長男・祐之進もその翌年、獄中で亡くなりました。

つまり、松子にとって井伊直弼は、父と兄を奪った仇だったのです。

吉田松陰が「及ばない」と絶賛した男の娘

安政の大獄で共に命を落とした吉田松陰は、処刑前日に書き残した「留魂録」の中で日下部伊三次をこう記しています。

「幕府による取り調べの際、今の政治の過失を列挙して非難し、『こんな様では幕府は3年~5年のうちに滅びる』と言った。この決死の言行は、とても僕の及ぶところではない。」

松陰ほどの人物に「及ばない」とまで言わしめた男の娘が、有村次左衛門の妻になる。

なおじが歴史を調べていて、ぐっとくる場面のひとつです。

三度の断りと、前夜の仮祝言

日下部家の母・静は、人を介して有村次左衛門に娘との縁談を申し入れます。

しかし次左衛門は断りました。

「自分は既に死ぬことが決まっている。その自分が他家の婿に入ることはできない。」

その後、松子の夢枕に亡き父・伊三次が現れ、「次左衛門を養子とし、汝はその妻となれ」と告げます。

静は改めて縁談を申し入れますが、今回も次左衛門は丁重に断りました。

ところが、いよいよ変の前日となった夜、静は涙ながらに懇願します。

「次左衛門様、どうか、どうか日下部の養子となり、娘を娶っていただけませんか。」

次左衛門は、「そこまで思ってくださるのなら」と承諾し、そのまま仮祝言の杯を交わしました。

前夜に交わされた和歌——辞世にも近い二首

二人は盃を交わした後、歌を交わし合ったといいます。

春風にさそはれてちるさくらばな とめてとまらぬわが思ひかな

君がためつくす真心天津日の 雲の上まで匂ひゆくらん

死を前にした青年と、父と兄を奪われた娘が交わした歌。

これを辞世の句と呼ばずして、何と呼べばいいのか——なおじは授業でこの話をするたびに、生徒たちが静かになる瞬間を覚えています。

翌朝、有村次左衛門は桜田門外へ向かいました。

桜田の 雪に散りゆく 若桜

有村次左衛門の最後と兄・雄助の末路

自刃の場所——辰ノ口付近(現パレスホテル東京付近)

首を討ち取った有村次左衛門は、そのまま幕府高官の館へ自首しようと歩き始めます。

ところが、倒れていた彦根藩士・小河原秀之丞が起き上がり、背後から切りつけました。

有村の背が朱に染まります。

水戸浪士が助太刀して小河原を返り討ちにしましたが、有村はすでに重傷でした。

それでも北へ約1キロ進み、現在のパレスホテル東京付近(辰ノ口付近)で力尽きます。

そこで覚悟を決め、自刃して果てました。

数え年23歳でした。

変後、雪に染まる現場では、息のある者たちを探して歩く女性の姿があったといいます。

日下部家の松子だったと伝えられています。

兄・有村雄助——弟の意志は届かなかった

桜田門外の変は、実行だけが計画ではありませんでした。

兄・有村雄助は変の「総帥格」として、別の使命を担っていました。

水戸の金子孫次郎とともに朝廷へ働きかけ、「皇室復興と政治改革を命じる勅命」を引き出す。

さらに、京にいる薩摩藩兵3千が呼応して動く——そういう壮大な計画でした。

しかし島津藩主・島津茂久(後の忠義)と国父・久光は「時期尚早」として動かなかった。

有村雄助と金子孫次郎は今の三重県四日市付近で薩摩藩士に捕縛され、そのまま薩摩へ護送されます。

そして藩命により自刃に処せられました。

なおじが元社会科教師として感じるのは、歴史の変わり目には必ず「時代を先取りしすぎた若者」がいるということ。

有村兄弟はその典型でした。

大久保利通も「一同の愁傷憤激、言葉にできない」と述べています。

日下部家のその後と海江田信義

婿を失った日下部家を継いだ男

婿を失った日下部家を継いだ男

次左衛門が自刃したことで、日下部家は跡継ぎを失います。

その後、日下部家を継いだのは次左衛門・雄助兄弟のさらに上の兄でした。

「弟たちの義理をはたすため」として婿入りし、日下部俊斎と名乗ります。

海江田信義——兄弟の意志を継いだ男

日下部俊斎は後に海江田信義となり、薩摩藩士として明治維新において活躍します。

海江田信義(1832〜1906年)は、倒幕運動・明治維新において重要な役割を担った人物です。

👉関連記事:海江田信義とは何をした人物か|生麦から子爵への軌跡

兄弟の意志を継いで日本の夜明けを見届けた彼の人生は、桜田門外の変から始まった一本の線でつながっています。

日下部家の母・静がどれほどの思いで次左衛門に縁談を申し入れたか。

その思いは、海江田信義という形で歴史に刻まれました。

よくある質問

Q1.有村次左衛門の妻・日下部松子のその後は?

記録には詳しく残されていませんが、変後に雪の中で生存者を探して歩く女性の姿が目撃されており、それが松子だったと伝えられています。
次左衛門が自刃した後、日下部家の跡取りは有村兄弟の上の兄(後の海江田信義)が継ぎました。
松子自身のその後の記録は、管見の限り確認されていません。

Q2.有村次左衛門の子孫・家系図は?

次左衛門は変前夜に仮祝言を挙げたものの、翌朝に自刃しているため直系の子孫は残っていません。
日下部家は上の兄・海江田信義(日下部俊斎)が継ぎ、薩摩藩士として明治維新後も活躍しました。
有村家全体の家系については、鹿児島県の史料に断片的な記録が残っています。

Q3.有村次左衛門の辞世の句はあるか?

「辞世の句」として正式に記録されているものは確認されていませんが、仮祝言の夜に松子と交わした和歌2首が、実質的な辞世に近いものとして伝わっています。
「春風にさそはれてちるさくらばな とめてとまらぬわが思ひかな」——これが彼の最後の言葉だったといえるかもしれません。

Q4.有村次左衛門と「西郷どん」の関係は?

NHK大河ドラマ「西郷どん」(2018年)では有村次左衛門が登場し、西郷隆盛との関係が描かれました。
史実では、有村次左衛門は薩摩藩士として西郷とは同時代人ですが、直接の親密な記録は限られています。
兄・有村雄助の盟友だった大久保利通が後に西郷と袂を分かつことを考えると、有村兄弟と薩摩藩の倒幕への流れはつながっています。

👉関連記事:大久保利通——盟友・西郷隆盛と袂を分かった男の倒幕への道

Q5.桜田門外の変の後、幕府はどうなったか?

幕府最高実力者・大老の暗殺という衝撃的な事件により、幕府の権威は著しく失墜しました。
以後、幕府は強硬路線から公武合体路線へと転換を余儀なくされ、天皇家との結婚(和宮降嫁)などで権威回復を図ります。
しかし実質的には、桜田門外の変が幕府崩壊へのカウントダウンの始まりでした。変から8年後の1868年、明治維新が実現しています。

筆者紹介|なおじ

なおじは元社会科教師として教育現場に35年間携わり、指導主事を5年、校長を11年務めました。退職後もボランティアで子どもたちに学習を教えています。

社会科の授業では桜田門外の変を何度も教えてきましたが、「有村次左衛門が前夜に仮祝言を挙げていた」という事実を知ったとき、教壇の上で思わず詰まりそうになったのを覚えています。歴史は数字や出来事だけではなく、そこに生きた人間の「物語」である——改めてそう感じた話です。

現在は8つのブログでドラマ芸能政治歴史スポーツ学び書評を書いています。

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