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水戸学とは?前期・中期・後期の違いをわかりやすく解説

2026年10月10日 最終更新

水戸学とは、江戸時代の水戸藩で発展した学問・思想です。簡単にいえば、日本の歴史を調べながら、国のあり方を考えた学問。徳川光圀による『大日本史』の編纂を源流とし、幕末には尊王攘夷や藩政改革、教育へ広がりました。

将軍家を支える水戸藩から、なぜ幕末の志士を動かす思想が生まれたのか。

前期の歴史編纂、藤田幽谷による転換、後期の政治と教育。三つの時期をたどると、水戸学の特徴と、幕末に受け継がれた思想の流れが見えてきます。

水戸学とは
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目次

水戸学とは|歴史から国のあり方を考えた学問

水戸学の特徴は、日本の歴史を調べることと、国や社会のあるべき姿を考えることが、切り離されていない点にあります。

水戸学講義

『大日本史』の編纂を源流とする学問

出発点は、のちに二代藩主となる徳川光圀が始めた歴史編纂。1657年、まだ世子だった光圀が史局を開き、国史の編纂に着手しました。

歴史書の役割を、少し考えてみてください。出来事を記録するだけなら、年代順に並べれば足りるはず。それでも編纂者たちは、誰を正統な君主と見るのか、人物の行いをどう評価するのかを問い続けました。

観点水戸学の特徴
源流徳川光圀による『大日本史』の編纂
学問的背景儒学を中心に、国学・史学・神道を結び付けた学風
大きな問い正統とは何か、国や社会をどう支えるか
幕末の展開尊王攘夷、政治改革、国防、教育
主な人物徳川光圀、藤田幽谷、会沢正志斎、藤田東湖、徳川斉昭

なおじ〔筆者)には、水戸学は「歴史観」「倫理観」「政治観」を別々にせず、一つの問題として引き受けた学問に見えます。昔を調べる仕事が、そのまま今をどう生きるかという問いになった。そこに、なおじは惹かれます。

朱子学・史学・神道との関係

水戸学の土台は、朱子学を含む儒学。コトバンクの辞書解説も、儒教思想を中心に国学・史学・神道を結び付けた学派と説明しています。

ただし、その中身は時代とともに動いた。後期の水戸学には、政治・経済・農業・国防まで論じる経世論の性格も加わります。

「朱子学・史学・国学・神道を混ぜたもの」とだけ覚えると、変化が見えにくくなります。中国由来の学問を学びながら、日本の歴史と秩序を考える。なおじが面白いと思うのは、この二つを同時に抱えていたところです。

👉関連記事:④ 朱子学から見る水戸学の形成:儒教思想が生んだ日本独自の学問体系

前期・中期・後期水戸学の違い

水戸学講義3

前期と後期の大きな違いは、歴史編纂を中心にした学問から、政治・国防・教育を論じる思想へ、関心が広がったことです。

前期は歴史編纂、後期は政治と教育へ

水戸学は一般に、前期と後期に分けて説明されます。その間をつなぐ藤田幽谷らの時期を「中期」と置けば、問いの変化が追いやすい。

区分時期の目安主な人物中心となった課題問いの変化
前期水戸学17世紀後半から18世紀の歴史編纂を中心とする時期徳川光圀、安積澹泊ら『大日本史』の編纂、歴史上の正統と人物評価歴史をどう記し、何を後世に残すか
中期水戸学18世紀後半から19世紀初頭の転換期立原翠軒、藤田幽谷ら編纂の継続、名分、政治秩序歴史から現実の秩序をどう考えるか
後期水戸学19世紀から幕末会沢正志斎、藤田東湖、徳川斉昭ら尊王攘夷、国体、政治改革、国防、教育国をどう守り、人をどう育てるか

後期になっても『大日本史』の編纂は続いていた。三期は、年を境に入れ替わった別々の学問ではありません。

主な出来事を年で並べると、三期が重なり合うのが見える。

年出来事
1657年光圀が史局を開き、国史の編纂に着手
1791年藤田幽谷が『正名論』を著す
1825年会沢正志斎が『新論』を著す
1838年『弘道館記』が徳川斉昭の名で公表される
1841年弘道館が仮開館
1851〜52年吉田松陰が水戸に滞在
1857年弘道館の本開館式
1860年桜田門外の変
1864年天狗党が筑波山で挙兵
1868年弘道館の戦いで文館などが焼失
1906年『大日本史』が完成

表を読むときは、人物名より「中心となった課題」に目を向けてみてください。歴史が政治に置き換わったというより、歴史を読む学問に、現実を動かす問いが重なっていった。そう捉える方が自然でしょう。

藤田幽谷を「中期」の転換点として読む

前期・後期の二分法では、藤田幽谷を後期水戸学の草分けとする説明もあります。ただ、光圀の歴史編纂から正志斎・東湖の政治思想までは、距離がある。その間を、幽谷や立原翠軒の時期として置いたのが「中期」です。

幽谷は立原翠軒に学び、彰考館の総裁にもなった人物。その師とは、『大日本史』の編纂の進め方をめぐって意見が分かれたと伝えられます。

なおじには、幽谷を間に置くと、水戸学が突然「尊王攘夷」になったわけではないことが見えてきます。時代の問いを受け取り直した人物が、そこにいた。

👉関連記事:⑰ 維新の源流としての水戸学NO4「前期水戸学とは、後期水戸学とは」

前期水戸学|徳川光圀と『大日本史』が築いた歴史観

徳川光圀

前期水戸学では、『大日本史』の編纂を通して、歴史上の正統や人物の行いをどう評価するかが問われました。

光圀が始めた歴史編纂

光圀が始めた『大日本史』は、天皇の事績を記す本紀と、人物の伝記である列伝を備えた歴史書。国立公文書館の解説によると、神功皇后を皇后列伝に入れ、大友皇子の即位を認め、南朝を正統とするなど、従来の史書と異なる判断を示しました。

水戸市の資料では、着手の1657年から完成の1906年まで249年。最初に志した光圀は、完成した本を手にすることができませんでした。

この長さに、なおじは立ち止まる。自分の生きている間に終わらない仕事を、次の世代が受け取っていく。水戸学の出発点には、思想だけでなく、史料を集めて書き継いだ人々の時間があります。

南朝正統論と歴史を見る基準

佐々助三郎

『大日本史』の特徴の一つは、南北朝時代の南朝を正統とする立場。歴史を動かした実力と、正統だと判断する基準を、同じものにはしませんでした。

「勝った側が正しいなら、歴史はもっと簡単なのでは?」そう思いませんか。しかし、勝敗だけでは、君主と臣下の関係や皇位継承の筋道を説明し切れない。それが、この歴史観の難しさでしょう。

なおじは、そこを分けて考えたいと思います。歴史書が採った基準を知ることと、その基準だけで当時の人々を裁くことは、別の営み。

👉関連記事:⑦ 水戸学とは何か?前期水戸学の特徴と徳川光圀の思想を詳しく解説

👉関連記事:⑤ 南北朝時代の正統性と水戸学:三種の神器から見る皇位継承の歴史

中期水戸学|藤田幽谷が変えた「日本を見る視点」

藤田幽谷は、君臣上下の名分を正すことが秩序の要だと論じ、歴史研究の中で育った尊王論に、政治の理論としての形を与えました。

『正名論』が問う立場と責任

幽谷は1791年、『正名論』を著しました。君臣上下の名分を厳格に守ることが、社会の秩序を安定させる要だと論じた書。

その筋道は、こう読めます。将軍が天皇を敬えば、大名は将軍を尊ぶ。大名が将軍を尊べば、家臣は大名を敬う。上から下へ、敬いの連鎖で秩序を保つという考え方です。

幽谷は幕府の存在を否定していない。幕府を中心とする秩序の中に、天皇を尊ぶ筋道を位置付けようとしたのです。

長く学校にいたなおじには、肩書きと責任のずれを問う部分が気になります。役職名を与えられた人ほど、その名に見合う働きを求められる。ただし、幽谷が前提にしたのは身分制の社会。現代の感覚で、そのまま重ねない方がよいでしょう。

歴史の学問を現実の政治へ結び直す

幽谷の門下からは、会沢正志斎、豊田天功、そして子の藤田東湖が出ました。過去の正統を問う仕事が、今の政治をどう立て直すかという問いへ、近づいていく。

幽谷は転換点、正志斎は国防と政治の構想、東湖は弘道館の理念づくり。それぞれの仕事は重なりながらも、同じではない。この分担を頭に置くと、人物名が少し覚えやすくなるはずです。

幽谷の役割は、歴史の本を閉じて政治へ進んだことではなく、歴史の問いを現実へ持ち出したこと。なおじには、そう見えます。

👉関連記事:② 藤田幽谷が動かした中期水戸学:古着屋の息子が江戸を震撼させた理由

👉関連記事:⑯ 維新の源流としての水戸学NO6『水戸学にとっての、立原翠軒と藤田幽谷』

後期水戸学|会沢正志斎・藤田東湖と尊王攘夷

藤田東湖
藤田東湖 想像画

後期水戸学では、外国からの圧力と国内の課題を前に、国をまとめ、政治を改め、人を育てる方法が論じられました。

会沢正志斎『新論』と国を守る構想

会沢正志斎が『新論』を著したのは、1825年。国のまとまりを強め、政治を改め、軍備を充実させる必要を説き、その柱として尊王と攘夷を結び付けた書です。

尊王は天皇を尊ぶこと、攘夷は外国勢力を退けること。この二つが結び付いたのが、尊王攘夷です。

「外国船を追い払う」とだけ読むと、軍事の話に見えるかもしれない。けれど、正志斎が考えたのは、軍備に加えて、民心と政治をどうまとめるかという問題でした。

外に敵がいるから強くなれ、では足りない。内側の政治と人々の心がばらばらでは、国は守れません。ここに、なおじは後期水戸学の切迫感を見る。

藤田東湖・徳川斉昭と弘道館

斉昭は、会沢正志斎や藤田東湖らと相談しながら、藩校を「日本的な総合大学」として構想した。水戸市の弘道館紹介は、そう説明しています。

建学の精神を示す『弘道館記』は、斉昭の原案をもとに東湖が起草し、学者らの検討を経て、1838年に斉昭の名で公表されました。茨城大学図書館の解説によれば、「尊王攘夷」の語が初めて用いられた文章でもある。

東湖は、『弘道館記』の趣旨を詳しく説いた『弘道館記述義』も著しました。『新論』と並び、志士たちの間で愛読されたと伝わる書。

弘道館は1841年に仮開館し、1857年に本開館式を迎えました。正庁を中心に、文館・武館・医学館などが並ぶ。このうち医学館では、製薬や、当時流行していた天然痘の予防接種である種痘も行われました。

書物を読む部屋だけではなかった。学び、鍛え、病を治す知恵まで身に付ける場所。国を守る人材づくりが、掛け声では終わっていなかったと分かります。

正志斎の構想、東湖の文章、斉昭の改革。言葉を書く人と、それを制度へ移す人が、同じ時期の水戸にいた。なおじは、この組み合わせに後期水戸学の強さを感じます。

👉関連記事:⑭ 会沢正志斎『新論』が幕末志士の心を揺さぶった理由|水戸学第8回

👉関連記事:⑮ 水戸学の思想家・藤田東湖が3度死を決意した理由と天狗党への影響

👉関連記事:⑫ 水戸学とは?弘道館記述義が教える日本らしさの本質【最終回】

水戸学と明治維新|幕府を支える思想が志士へ広がるまで

水戸学講義2

水戸学の尊王論は、幕府を否定するものとして始まったのではなく、将軍を頂点とする秩序の中に、天皇への敬いを位置付けた思想でした。

当初は幕府を強めようとした尊王攘夷

水戸藩は徳川御三家の一つで、将軍家を支える立場。東書文庫の解説は、幕府が皇室を敬い、諸侯が幕府を尊び、武士が諸侯を敬うという構造で水戸の尊王論をとらえ、敬幕が前提だったと述べています。

「尊王なら倒幕」と結び付けると、ここが抜け落ちます。天皇を尊びながら、将軍には政治を立て直してもらう。その関係を前提にした議論でした。

なおじが引っかかるのは、幕府を支えるための厳しい注文が、やがて幕府への批判にもなり得るところ。支えることと、黙って従うことは、同じではなかったのでしょう。

吉田松陰らを通じて広がった思想

水戸学講義4

水戸の外にも、この議論を読み、学んだ人々がいた。長州藩士の吉田松陰は、1851年12月から翌年1月にかけて水戸に滞在し、会沢正志斎や豊田天功らに師事したと伝えられます。

通説では、松陰が『新論』に触れたのは、水戸滞在の前年、1850年の平戸遊学のときとされます。ただし、松陰は水戸学をそのまま受け取ったわけではない。『新論』を読み替え、やがて国学へ向かったと指摘する研究もあります。

「本を一冊読んだら維新が起きた」とは言えません。人が訪れ、教えを受け、自分の藩の課題と結び付けて読み替える。その往復の中で、思想は形を変えながら広がりました。

なおじには、水戸学は維新を生んだ唯一の原因ではなく、幕末の人々が国のあり方を語るための言葉を渡した思想に見えます。

桜田門外の変・天狗党の乱と水戸藩の対立

水戸藩の内側では、尊王攘夷を掲げる人々のあいだでも、実行の方法や幕府との関係をめぐって対立が深まった。尊攘派のうち激派の一団は脱藩し、1860年に桜田門外の変を起こします。

1864年には、藤田東湖の息子・藤田小四郎らが率いる激派が、筑波山で挙兵した。いわゆる天狗党の乱。

明治元年の1868年には、藩内の対立が弘道館にも及びました。この弘道館の戦いで焼失したのは、文館や医学館など。人を育てるための建物が、同じ藩の人々の争いで失われた。長く学校にいたなおじには、この事実が重く残ります。

同じ理想を口にした人々が、同じ行動を選ぶとは限らない。水戸学を学ぶなら、思想の力と、その言葉を実行に移したときの犠牲を、どちらも見つめておきたいところです。

👉関連記事:⑳ 水戸は、なぜ彦根の井伊直弼を討ったのか:建造時の姿を残す彦根城

👉関連記事:㉑ 有村次左衛門の妻と前夜の仮祝言——23歳の覚悟

水戸学を読む四つの言葉

坂本竜馬
JIN/坂本竜馬(演者・内野聖陽)

水戸学の用語は、尊王攘夷・忠孝一致・文武不岐・国体の四つに分けると、関係をつかみやすくなります。

尊王と尊王攘夷

尊王は、天皇を尊ぶ考え方。そこに外国勢力を退ける攘夷論が結び付いたのが、尊王攘夷です。

「尊王攘夷」の四字が初めて用いられた文章が、『弘道館記』。茨城大学図書館は、そう解説している。

「尊王」と「尊王攘夷」を、同じ意味で読まない。なおじは、この違いに、国内の秩序を問う学問が対外危機に向き合うまでの時間を見ます。

忠孝一致

忠孝一致は、君主への忠と親への孝を、対立させず一つの道徳の中で考える立場。弘道館公式は、建学の精神を「神儒一致」「忠孝一致」「文武一致」「学問事業一致」「治教一致」の五項目で示しています。

忠を単に「公のために尽くすこと」と言い換えると、当時の君臣関係が見えにくくなります。親への思いと君主への務めが、現実にどう重なったのか。標語より、人の選択に目を向けて読みたい言葉です。

文武不岐

文武不岐は、学問と武芸を別々の道にしない考え方。弘道館公式の五項目では、「文武一致」と表記されています。

儒学や歴史を学ぶ文館、武芸を修める武館、医学を担う医学館。一つの藩校に、これだけの学びが並んでいた。

現代なら「勉強も運動も」と受け止めがちな言葉ですが、当時は国や藩を支えるための教育。なおじは、知識を持つだけでなく、実際に働ける人を育てようとした姿が、そこに浮かびます。

国体

『新論』で論じられた国体は、日本の建国の原理と、それに基づく国家のあり方を指す概念。天皇を中心とする国のまとまりを考える言葉として、重要な位置を占めました。

その後、この言葉は明治以降の国家秩序や教育にも関わっていく。幕末の国防論と、後世の政治的な用法は、時代を分けて読む必要があるでしょう。

同じ二文字だから同じ意味、と急がない。なおじは、そう心がけています。言葉もまた、使われる時代の重みを背負う。

水戸学を授業や地域学習でどう学ぶか

まなび

水戸学は、人物名や用語を覚えるだけでなく、歴史を書く基準や学問と政治のつながりを問うことで、学びが深まります。

南朝正統論から歴史を書く基準を考える

『大日本史』が南朝を正統としたことは、歴史書に編集方針があることを考える題材。授業なら、問いを三つに分けてみてください。

「編纂者は、何を基準に正統を決めたのか」「勝敗だけを基準にすると、何が見えなくなるのか」「南朝を正統とすることと、北朝側の人々を全員悪者にすることは同じか」。

歴史書の結論を覚えるより、その結論に至る基準を考えたい。人物を好きか嫌いかで分ける前に、どの史料を読み、どんな価値を重んじたのかを問う学びを、なおじは大切にしています。

弘道館で学問と政治のつながりを探す

水戸市の紹介によれば、斉昭はまず、五つの建学の精神を示す弘道館記碑を敷地の中央に建てました。現存する建物には、孔子廟の戟門や正門、正庁、至善堂などがある。

見学では、「なぜ最初に、建学の精神を示す碑を中央に建てたのか」「医学館が、種痘のような医療まで行ったのはなぜか」と問うてみてください。建物の名前が、政治や教育の考え方へつながっていく。

なおじが次の世代へ手渡したいのは、水戸学の言葉をそのまま信じる姿勢ではない。先人が何を守ろうとし、何に迷い、その選択が誰にどんな結果をもたらしたのかを考える姿勢です。

地域の歴史は、誇りだけでなく、痛みも残しています。その両方を自分の言葉で語れることが、歴史を受け継ぐということではないでしょうか。

👉関連記事:③ 今話題の水戸学って何?深作安文先生が教えてくれた「らしさ」の道徳学

水戸学をさらに深く知る関連記事

水戸学は、人物・著作・史跡のどこから読むかで、見えてくる問いが変わる。気になった論点から、次の一篇へ進んでみてください。

前期水戸学と徳川光圀

藤田幽谷と水戸学の転換

正統論と思想の土台

後期水戸学と幕末政治

弘道館から水戸学を読む

よくある質問

水戸学を始めたのは誰ですか?

源流となる歴史編纂を始めたのは徳川光圀。ただし、幕末の水戸学の思想を光圀一人が完成させたわけではなく、藤田幽谷、会沢正志斎、藤田東湖らによって展開しました。

水戸学は儒学とは違うのですか?

水戸学は、儒学と無関係な別の学問ではない。儒学を重要な土台とし、国学・史学・神道を結び付けて発展した学問・思想です。

水戸学は最初から倒幕を目指したのですか?

当初の尊王論は、将軍を頂点とする秩序が前提。その言葉を受け継いだ人々が、幕末の政治状況の中でそれぞれ別の道を選びました。

徳川斉昭は水戸学でどんな役割を果たしましたか?

学者の思想を、藩政改革と教育の制度へ結び付ける役割を担いました。代表例は、弘道館の創設。

水戸学を学ぶなら、誰から読むと分かりやすいですか?

源流を知るなら光圀、思想の転換なら幽谷、幕末の国防・政治論なら正志斎が入口。教育や道徳に関心のある方は、東湖と弘道館から入ると、全体像につながるでしょう。

筆者紹介|なおじ

なおじ。公立小・中学校で約35年、教師と校長として教育現場に立ち、指導主事として学校を外側から見る仕事にも携わりました。全国中学校社会科教育研究会の元理事、茨城県社会科研究部長(元)として、社会のしくみと人の生き方を長く見つめてきました。

水戸学を書くときは、弘道館や水戸城跡のような場所と、国立公文書館・水戸市・弘道館などの公的な解説を手がかりに、史実と筆者の見立てを分けています。

現在は8つのブログで、ドラマ・芸能・政治・歴史・スポーツ・旅・学び・書評といった分野を横断しながら、「人の生き方」と「社会とのつながり」をテーマに記事を書き続けています。

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