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勝海舟は何をした人か——江戸を戦火から救った幕末の外交家

こんにちは、なおじです。

実はなおじ、高校時代から勝海舟ファンでした。

氷川清話(ひかわせいわ)」を読んで、こんな豪快な人物が幕末にいたのかと驚いた記憶があります。

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西郷隆盛に興味を持ったのも、海舟の本がきっかけでした。

「勝海舟は何をした人なのか」と検索している方は多いはず。

江戸無血開城の立役者、咸臨丸で太平洋を渡った人物……とはわかっていても、「具体的に何がすごいの?」という疑問が残りますよね。

社会科教師として35年、幕末を何度教えてきたかわかりません。

そのなおじが、勝海舟の5つの偉業と人間臭い素顔を丁寧にたどっていきます。

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目次

勝海舟の5つの偉業——まずここを押さえよう

この記事では、勝海舟の生涯を「5つの偉業」という軸で整理します。

#偉業時期
偉業①咸臨丸による太平洋横断・渡米1860年
偉業②神戸海軍操練所の開設と近代海軍の礎1863年
偉業③坂本龍馬ら志士の育成1863〜64年
偉業④江戸無血開城——西郷隆盛との歴史的会談1868年
偉業⑤明治以降の教育支援と次世代への継承1870年代〜

「5つもあるの?」と思った方、ちょっと待ってください。

これが全部、一人の人間がやった仕事です。

しかも、すべての局面で「時代の流れを読んでいた」という共通点があります。

順番に見ていきましょう。

この記事でわかること

  • 勝海舟の基本プロフィール(生年・出身・家族)
  • 【偉業①】咸臨丸で太平洋を渡った男のとんでもない裏話
  • 【偉業②③】海軍創設と坂本龍馬育成の軌跡
  • 【偉業④】江戸無血開城——西郷隆盛との会談の真相
  • 【偉業⑤】明治時代も生き残った唯一の幕臣としての晩年
  • 氷川清話と勝海舟の人間臭い素顔

勝海舟の基本プロフィール——どんな人物だったのか

勝海舟

生まれ・家族・幼少期

勝海舟は文政6年(1823年)1月30日、江戸本所亀沢町で生まれました。

現在の東京都墨田区、両国駅から歩いてすぐの場所です。

父は旗本小普請組の勝小吉。

この父・小吉もなかなかの破天荒な人物で、自伝「夢酔独言(むすいどくごん)」を書き残しています。

親子そろって本を書くというのも、なかなかユニークですよね(笑)。

幼名は麟太郎(りんたろう)、通称は義邦(よしくに)。

「海舟」という号は佐久間象山の書「海舟書屋」から取ったとされています。

9歳で狂犬にかまれたという衝撃の逸話

幼少期で有名なエピソードがあります。

9歳の頃、近所の狂犬に睾丸をかまれ、70日間生死をさまよったという話。

父・小吉の自伝「夢酔独言」に記されており、一次資料としての信頼性は高い。

これが原因で晩年まで犬が苦手だったというのですから、9歳の体験というのは本当に大きいですよね。

なおじが生徒にこの話をすると、毎回どっと笑いが起きました。

「日本を救った男の天敵が犬」って、なんか身近に感じませんか(笑)。

幕臣としての出発点

父の跡を継ぐ形で旗本の家に生まれましたが、格式は低い下級武士。

だからこそ、実力で這い上がるしかなかった。

蘭学・兵学を独学で学び、ペリー来航(1853年)の翌年には海防意見書を老中・阿部正弘に直訴します。

これが認められて昇進の道が開けた。

「やってみた者勝ち」という姿勢は、この頃からすでにありました。

【偉業①】咸臨丸で太平洋を渡る——船酔い艦長の大冒険

咸臨丸とは何か

咸臨丸(かんりんまる)は安政4年(1857年)にオランダで建造された蒸気軍艦です。

排水量625トン、機関出力100馬力、備砲12門。

船名は『易経』の「咸臨」からとり、「君臣が互いに親しむ」という意味があります。

実にいいネーミングですよね。

勝海舟は実は船酔いがひどかった

万延元年(1860年)、咸臨丸はサンフランシスコへ向けて出港します。

勝海舟は「軍艦操練所教授方頭取」として乗船。

……ところが、です。

38日間の航海のうち、荒天続きのなかで勝海舟はほぼ船室にこもりっぱなし。

船酔いがひどすぎて、艦長らしい仕事はほとんどできなかった、と残された資料に明記されています。

「太平洋を渡った豪傑」のイメージが一気に崩れましたか?(笑)

まあ、船酔いは体質なので仕方ないんですが、「日本初の太平洋横断の指揮官が船酔いで寝込んでいた」というのは、なんとも人間くさいですよね。

渡米が変えた日本観

それでも、サンフランシスコに着いてからの勝海舟は違った。

アメリカの工業・政治・教育のすべてに衝撃を受け、「このままでは日本は飲み込まれる」という危機感を持ち帰ります。

帰国後の海軍近代化への情熱は、この体験が出発点でした。

船酔いで倒れていた男が、日本の未来を変える種を持ち帰った。

なんとも痛快な話ではないでしょうか。

【偉業②③】海軍創設と坂本龍馬育成——近代日本への布石

神戸海軍操練所の開設(偉業②)

帰国後の勝海舟が最も力を入れたのは、人材育成でした。

文久3年(1863年)、神戸に海軍操練所を開設。

身分に関係なく優秀な人材を集め、西洋式の海軍教育を行います。

これは当時としては相当に革新的な発想。

「家柄より実力」という価値観を、幕臣でありながら体現していたのです。

坂本龍馬との出会いと師弟関係(偉業③)

ここで登場するのが、あの坂本龍馬。

脱藩浪人だった龍馬が、最初は勝海舟を暗殺しに来た——という話は有名です。

「斬り込もうとしたら、話に引き込まれた」と龍馬が語ったと伝えられています。

龍馬はその後、海舟の最大の理解者となり、海軍操練所の門下生として活躍します。

なおじは龍馬も大好きなのですが、この「殺しに来たら弟子になった」というくだりは何度読んでも痺れます。

先生と生徒の関係って、きっかけは何でもいいんですよね。

元教師として「どんな出会い方でも、本物の出会いは人を変える」と実感します。

👉関連記事:坂本龍馬と勝海舟|師弟関係と幕末への影響を解説

保守派に潰された操練所

しかし、幕府内の保守派はこの動きを危険視。

元治元年(1864年)、神戸海軍操練所は閉鎖させられます。

さらに勝海舟は一時罷免。

「やる気のある人間が組織に阻まれる」構図は、150年以上前も今も変わらない。

なおじも経験したことがないとは言えません(苦笑)。

【偉業④】江戸無血開城——西郷隆盛との歴史的会談

陸軍総裁として無血開城を目指した

慶応4年(1868年)、戊辰戦争が勃発。

勝海舟は陸軍総裁に任命されます。

徹底抗戦を主張する強硬派を抑えながら、「戦えば江戸の150万人が犠牲になる」という現実を訴え続けました。

なおじが社会科の授業で「もし江戸で戦っていたら?」という問いを立てると、生徒たちが本気で考え込みます。

「東京が廃墟になってたかもしれない」という感想が一番多かったです。

3月13・14日の西郷隆盛との会談

慶応4年3月13日・14日(1868年4月5・6日)、田町の薩摩藩江戸藩邸で、勝海舟と西郷隆盛の会談が行われました。

この会談の前に、山岡鉄舟が先に西郷のもとへ赴き、下交渉をまとめていたのも重要なポイントです。

一人の英雄が解決したというより、複数の「話し合いを選んだ武士たち」が連携した結果でした。

「戦わない」という決断の重さ

会談で勝海舟が主張したのは、一言で言えばこうです。

「ここで戦えば、東洋の文明都市が滅びる。それは西欧列強への格好のチャンスを与えることになる」

国際情勢を見据えた論理で、西郷を説き伏せたのです。

氷川清話(ひかわせいわ)を読んで西郷隆盛に興味を持ったなおじにとって、この場面は幕末最大のクライマックス。

二人の巨人が、互いの「武士道」を認め合いながら、合理的な判断を下した。

これ以上のドラマはないと思います。

👉関連記事:勝海舟と江戸無血開城|なぜ戦わずに江戸を守れたか(記事執筆後リンク予定)

【偉業⑤】明治時代も「生き残った」唯一の幕臣

海軍卿就任とすぐの辞任

明治6年(1873年)、勝海舟は海軍卿に任じられます。

ところが台湾出兵に反対して、あっさり辞任。

この「嫌なら辞める」という徹底した姿勢は、一貫していますよね。

出世や地位に執着しない——それが勝海舟という人間の核心にある気がします。

教育支援と次世代への継承

晩年の勝海舟は、哲学館(現・東洋大学)や専修学校への資金援助を行います。

また、枢密顧問官として憲法制定にも意見を述べました。

「幕府を守れなかった自分」という意識を持ちながらも、次の世代を支えた姿は、いかにも海舟らしいと思います。

福沢諭吉との有名な論争

咸臨丸で同船した福沢諭吉は、晩年に「痩我慢の説(やせがまんのせつ)」で勝海舟を批判します。

「幕府が倒れた後も、明治政府に仕えたのは武士の精神に反する」という内容。

これに対して勝海舟は穏やかに反論。

「私には私の判断があった」と言う姿勢は、老いてなお揺るがない。

なおじが「教師として35年、校長として11年やってきてわかること」があるとすれば、「自分の軸を持ちながら変わり続ける人間が一番強い」ということです。

勝海舟はまさにそういう人物でした。

氷川清話と勝海舟の人間臭い素顔

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「氷川清話」とはどんな本か

「氷川清話(ひかわせいわ)」は、勝海舟が赤坂・氷川の邸で若者や記者に語った内容を編んだ談話録です。

明治30年(1897年)に吉本襄が編集・出版。

辛辣な人物評・自己批判・時代への怒りが詰まった一冊で、今読んでも全く色あせていません。

なおじが特に好きなのは、「幕末の政治家をズバズバ切る」くだり。

「海舟先生はこの人が嫌いだったんだな」とわかる語り口がたまりません(笑)。

人柄を示す3つのエピソード

海舟の素顔を示すエピソードをいくつか。

犬が大の苦手。 9歳のトラウマが生涯続いた。

剣術は相当な使い手。 剣客・島田虎之助に師事し、剣の実力は本物だったと伝わります。

貧乏武士からの逆転。 若い頃は写本仕事をしてお金を稼ぎながら勉強したという話も残っています。

苦労人で、剣が立って、話術も抜群。

でも船酔いする。

この「完璧じゃないところ」が、勝海舟を長く愛される人物にしているのかもしれません。

なおじも「完璧な先生」より「面白い先生」を目指していたので、少しだけ親近感があります(笑)。

勝海舟記念館へ行こう

大田区立勝海舟記念館(洗足池公園内)では、海舟の遺品・書簡・西郷南洲留魂碑などが見られます。

海舟が自費で建立した西郷南洲留魂碑は、「敵を悼む」という武士としての矜持を示す一品。

社会科見学でぜひ訪ねてほしい場所です。

👉関連記事:勝海舟ゆかりの地・記念館ガイド(東京・大田区中心)(記事執筆後リンク予定)

Q&A 勝海舟についてよく聞かれること

Q1:勝海舟と坂本龍馬はどんな関係でしたか?

龍馬はもともと脱藩浪人として勝海舟のもとを「斬り込む」つもりで訪ねたとされています。

ところが話し込むうちに弟子入りを志願し、神戸海軍操練所の門下生になります。

「殺しに来て、弟子になった」という師弟関係は幕末でも異色の出会い。

龍馬が後に薩長同盟や大政奉還に動いた背景には、海舟から学んだ「国を見る目」があったと考えられています。

Q2:江戸無血開城はなぜ実現できたのですか?

最大の要因は、勝海舟が「国際情勢の論理」で説得したことです。

「ここで戦えば西欧列強の介入を招く」というロジックは、西郷隆盛にも響きました。

また、事前に山岡鉄舟が下交渉をまとめていたことも大きい。

一人の英雄が解決したというより、複数の「話し合いを選んだ武士たち」が連携した結果でした。

Q3:「氷川清話」はどこで読めますか?

講談社学術文庫や角川ソフィア文庫などから文庫版が出ています。

江藤淳・松浦玲編の講談社版が定評ある完全校訂版です。

読みやすくて面白く、歴史が得意でない方にもおすすめ。

なおじが高校時代に読んだのも文庫版でした。

Q4:勝海舟は明治以降に何をしましたか?

海軍卿・元老院議官・枢密顧問官などを短期間務めましたが、権力には執着しませんでした。

晩年は赤坂の邸宅で若者たちの相談に乗り、哲学館(現・東洋大学)や専修学校への援助も行います。

「幕府を守れなかった自分」という意識を持ちながらも、次の世代を支えた姿は、いかにも海舟らしいと思います。

Q5:勝海舟の凄さを一言で言うと?

「時代を読む目」と「話し合いを選ぶ勇気」の両方を持っていた点です。

武力ではなく論理と対話で江戸の150万人を救った。

元教師として「こういう人物が幕末にいた」ということを、生徒に一番伝えたかった話でした。

筆者紹介|なおじ

なおじは元社会科教師として教育現場に35年間携わり、指導主事を5年、校長を11年務めました。
退職後もボランティアで子どもたちに学習を教えています。

茨城県の公立小・中学校で社会科を教え、幕末・近現代史は特に力を入れてきた分野です。高校時代から勝海舟ファンで、「氷川清話(ひかわせいわ)」を読んで西郷隆盛にも興味を持ちました。一次資料を確認しながら書くことを大切にしています。

現在は8つのブログでドラマ芸能政治歴史スポーツ学び書評を書いています。

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