こんにちは、なおじです。
大久保利通と薩摩藩の関係を語るとき、避けて通れないのが親友・西郷隆盛との友情と決裂です。
同じ町で育ち、同じ夢を見て、幕末の激流を共に泳いだ二人がなぜ袂を分かったのか。
そしてなぜ大久保は、倒幕という茨の道を選んだのか。
今回は、大久保利通が薩摩藩内で頭角を現してから明治の設計者となるまでの軌跡を、桜田門外の変との接点も含めてお伝えします。

この記事でわかること
- 大久保利通の生い立ちと薩摩藩での出発点
- 精忠組結成から島津久光の腹心になるまで
- 公武合体から武力倒幕へ転換した3つの転機
- 西郷隆盛との友情・協力・そして決裂
- 廃藩置県・内務省設立など明治日本の設計
- 紀尾井坂の変——49歳での暗殺とその死因
- 大久保利通の子孫と麻生太郎との関係
大久保利通はどんな人物だったか

薩摩下級武士の家に生まれる
大久保利通は、1830年(天保元年)8月10日、薩摩藩士・大久保次右衛門利世の長男として鹿児島城下加治屋町に生まれました。
幼名は正袈裟、のちに正助・一蔵と称しました。
現在の鹿児島市です。
加治屋町は薩摩藩士の多くが暮らす武家地。
同じ町には、後の生涯の盟友となる西郷隆盛も住んでいました。
二人は幼少期から親しく、共に学び、共に遊んだ幼なじみです。
なおじが歴史を教えていたとき、生徒に「歴史を動かした人物って、実は幼なじみが多い」という話をよくしていました。
大久保と西郷の関係は、その最たる例のひとつかもしれません。
桜田門外の変との意外な接点
大久保利通は、1860年(安政7年)の桜田門外の変と深い接点があります。
変を実行した薩摩藩士・有村次左衛門と、その兄・有村雄助の同志だったのです。
有村兄弟が井伊直弼暗殺を決行した直後、兄・雄助が三重県四日市付近で捕縛され薩摩藩命で自刃したとき、大久保は「一同の愁傷憤激、言葉にできない」と記しています。
実は大久保自身、安政6年(1859年)に井伊直弼の暗殺計画に関わっていましたが、未遂に終わっています。
この事件がきっかけとなって、島津久光の知遇を得ることになるのは皮肉な歴史の流れといえるでしょう。
👉関連記事:「桜田門外の変」の裏話——有村次左衛門と前夜の仮祝言・23歳の覚悟
精忠組から島津久光の腹心へ

薩摩の若手改革派「精忠組」
1850年代、薩摩藩内では尊王攘夷運動が高まっていました。
大久保利通は西郷隆盛とともに、薩摩藩内の急進的な改革派グループ「精忠組」を組織します。
精忠組は薩摩藩の若手藩士による集団で、藩の旧弊を打ち破り、新しい政治を実現しようとする気概に満ちていました。
ただし、当初の大久保は組織の旗振り役を担いながら、藩と精忠組の間に生じる軋轢を抑える仲介役としても機能していました。
えっ、改革派なのに仲裁役もやってたの、と思うかもしれませんが——それが大久保の真骨頂です。
理念と現実を同時に見る目を、この頃から持っていたのでしょう。
お由羅騒動から久光の側近へ
薩摩藩では、11代藩主をめぐる後継争い「お由羅騒動」が勃発し、大久保の父・次右衛門も謹慎処分を受けます。
その後、島津斉彬が藩主に就任したことで事態は収拾し、大久保も謹慎を解除されました。
しかし斉彬が急死すると、島津久光(斉彬の異母弟)が実権を握り始めます。
大久保は久光の側近として公武合体運動を推進する立場に就きました。
公武合体とは、朝廷(天皇家)の権威を活用して幕府を立て直そうという路線です。
つまりこの時点では、倒幕ではなく「幕府を改革しながら使う」という考えが大久保の基本姿勢でした。
なぜ大久保は倒幕へ転換したか

四侯会議の失敗——公武合体路線の限界
1867年(慶応3年)、大久保利通は小松帯刀や西郷隆盛とともに、有力な4藩の藩主(四侯)を集めて政治改革を話し合う「四侯会議」の開催を実現します。
この会議は公武合体路線の集大成でした。
ところが、第15代将軍・徳川慶喜によって四侯会議はあっけなく頓挫させられます。
「幕府との話し合いによる改革」という路線が行き詰まった瞬間でした。
なおじが社会科教師として感じるのは、「対話路線で変革しようとした人物が、対話の限界に直面したとき、どう動くか」が歴史の岐路になるということ。
大久保はこの瞬間、武力倒幕路線へと完全に転換します。
薩長同盟と出兵拒否——倒幕の実行へ
1866年(慶応2年)、大久保と西郷は坂本龍馬の仲介のもと、薩長同盟を締結します。
薩摩と長州は幕府内での敵対関係にありましたが、「倒幕」という共通目標のもと手を結びました。
同年、幕府から薩摩藩に長州征討への参加命令が下りますが、大久保ら薩摩藩はこれを拒否します。
この出兵拒否は、幕府への事実上の反旗です。
さらに1867年12月、大久保は岩倉具視と結んで王政復古のクーデターを敢行。
天皇中心の新政府樹立が宣言され、日本は明治維新へと動き出しました。
👉関連記事:水戸学とは何か?前期水戸学の特徴
西郷隆盛と大久保——友情と決裂

ピッチャーとキャッチャーだった二人
幼なじみの大久保と西郷は、倒幕期においては絶妙なコンビを形成していました。
歴史家はしばしばこの関係を「西郷がピッチャー、大久保がキャッチャー」と表現します。
西郷の人望・行動力と、大久保の戦略眼・調整力が組み合わさって、倒幕という巨大な目標を実現させたのです。
しかし、明治新政府が樹立されると、二人の路線は次第にずれ始めます。
西郷は人を動かすカリスマでしたが、近代国家の設計という細かい実務には向いていなかった。
一方の大久保は、地味でも着実に制度を作る仕事を好みました。
えっ、あの豪快な西郷が事務作業が苦手だったの?——とツッコミたくなりますが、実はそういう話なのです(笑)
征韓論をめぐる決裂と西南戦争
1873年(明治6年)、朝鮮への軍事的圧力をかける「征韓論」をめぐって、政府内で激しい対立が起きます。
西郷隆盛は「自分が朝鮮に使者として赴く」と主張しましたが、大久保は猛反対しました。
なぜか。
大久保の眼には、明治日本はまだ対外戦争を戦えるほど近代化されていないという現実が見えていたのです。
これが「明治六年の政変」です。
西郷らは下野し、大久保は政府の実権を掌握します。
その後、1877年(明治10年)、西郷を担ぎ出した士族たちが「西南戦争」を起こします。
大久保は指揮を執り、盟友・西郷の軍を制圧しました。
西郷は城山で自刃。
勝者となった大久保がどんな思いだったか。
その翌年、大久保は暗殺されます。
👉関連記事:西郷隆盛の生涯と評価——征韓論で下野した男の真実(記事執筆後リンク予定)
明治の設計者——廃藩置県と暗殺の最後

廃藩置県と内務省——近代日本の骨格を作った
大久保利通が明治新政府で最も力を発揮したのは、廃藩置県(1871年)の実行です。
江戸時代の藩を廃止し、中央集権的な府県制度を打ち立てるという大改革を、大久保は断行しました。
反対する旧藩主や士族が多い中、「やるなら今しかない」という判断で押し切った。
また、内務省を設立し、初代内務卿として産業の近代化・殖産興業を推進します。
近代日本の「骨格」を作ったのは大久保だと言っても過言ではありません。
なおじが元校長として思うのは、大久保のやり方は「異論を黙らせる独裁者」ではなく「正しいと信じた設計図を、反対意見の中でも実行し続けた改革者」だったということ。
学校運営でも、誰かが決断しなければ動かないことはたくさんありました。
それが孤独な作業だということも、少しだけわかります。
👉関連記事:岩倉使節団と明治日本の欧米視察——何を見て何を持ち帰ったか(記事執筆後リンク予定)
紀尾井坂の変——49歳での突然の最後
1878年(明治11年)5月14日、大久保利通は明治天皇に謁見するため赤坂仮御所へ向かっていました。
その途中、東京・紀尾井坂(現・千代田区紀尾井町)で不平士族6名に馬車ごと襲撃されます。
大久保は全身16か所の刀傷を受けて絶命しました。
享年49歳。
維新の三傑のうち、木戸孝允は1877年に病死、西郷隆盛は西南戦争で自刃。
そして大久保は暗殺。
三傑が全員、明治11年までに死去するという歴史の皮肉は、教室で話すといつも生徒が「えっ?」と声を上げる場面でした。
川柳:維新三傑 散るも早し 明治の夢
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よくある質問
Q1.大久保利通と麻生太郎はどんな関係?
大久保利通の子孫として広く知られているのが、元首相・元財務大臣の麻生太郎氏です。
麻生太郎氏の母方の曾祖父が大久保利通の子・大久保利和であり、大久保利通の血を引いていることになります。
麻生太郎氏自身も父方で吉田茂元首相の孫にあたるため、「日本近代史の血脈を二本持つ政治家」として話題になることがあります。
ただし、この関係はあくまでも母方を通じた縁であり、直系の子孫という訳ではありません。
Q2.大久保利通と西郷隆盛はなぜ対立したか?
二人の対立の直接的な引き金は1873年の「征韓論」でした。
西郷は朝鮮への積極的な外交(武力的圧力を含む)を主張し、大久保は近代化が優先として反対しました。
しかしより本質的な対立は、「人の心で動かす西郷」と「制度・組織で動かす大久保」という、リーダーシップスタイルの根本的な違いにあったといわれています。
二人は価値観の対立ではなく、「近代国家の作り方」をめぐる方法論の対立だったのかもしれません。
Q3.大久保利通が薩長同盟を推進した理由は?
大久保が薩長同盟を推進した最大の理由は、幕府単独では倒幕できないという現実認識です。
薩摩と長州は幕末の対立関係にあり、薩英戦争・下関戦争をへてともに西洋の軍事力を痛感していました。
大久保は「倒幕という目的のためには、かつての対立を超えた連合が必要」と判断し、西郷・坂本龍馬と組んで同盟を成立させます。
政治家としての実利主義が最も発揮された局面といえます。
Q4.大久保利通の功績を一言で表すと?
「近代日本の設計者」というのがなおじの評価です。
廃藩置県・内務省設立・殖産興業政策・岩倉使節団への参加と欧米視察——これらはすべて「欧米列強に負けない日本」を作るための一貫した設計図でした。
西郷のような国民的人気はありませんでしたが、明治日本の制度的骨格を作ったのは間違いなく大久保です。
暗殺された1878年、大久保は「10年後の日本の設計図」を手帳に書き記していたといいます。
Q5.大久保利通の暗殺犯はどんな人物?
大久保利通を暗殺した6名は、島田一郎を主犯とする不平士族たちでした。
彼らは「斬奸状」(ざんかんじょう、暗殺の理由書)を携えており、その内容は「専制政治・士族への冷遇・外交姿勢の誤り」への批判でした。
西南戦争後、士族の特権を次々と廃止した大久保への怒りが爆発した事件でした。
逮捕された6名は同年処刑されています。
筆者紹介|なおじ
なおじは元社会科教師として教育現場に35年間携わり、指導主事を5年、校長を11年務めました。退職後もボランティアで子どもたちに学習を教えています。
茨城県の公立小・中学校で社会科を教え続けた経験から、大久保利通は授業でも特に「孤独な改革者」として語ることが多い人物でした。生徒に「なぜ大久保は嫌われてまで改革を続けたのか」を問うと、クラスが一番静かになる瞬間でした。その「静けさ」の意味を、教壇を離れた今も考えています。