こんにちは、なおじです。
35年間社会科を教えてきた中で、生徒から最も質問が多かったものの一つが「院政と摂関政治って何が違うんですか?」というものでした。
どちらも平安時代に天皇以外の人物が実権を握った政治システムですが、その仕組みや権力者、衰退の理由は大きく異なります。
この記事では、院政と摂関政治の違いを比較表で整理し、受験で頻出のポイントも解説していきます。

この記事でわかること
- 院政と摂関政治の決定的な違い(誰が実権を握ったのか)
- 摂関政治の仕組みと藤原氏が権力を握った理由
- 院政が始まった背景と白河上皇の狙い
- 権力者・権力基盤・衰退理由を5項目で比較した表
- 現代の政治・企業でも使われる「院政」という言葉の意味
- 受験で頻出する院政と摂関政治のポイント(Q&A形式)
院政と摂関政治|誰が実権を握ったのか

摂関政治とは何か
摂関政治は藤原北家の有力者が自分の娘を天皇に嫁がせ、その外戚(母方の祖父)として摂政や関白に就任して政治を動かすシステムです。
権力の源泉は「天皇との血縁関係」にありました。
具体的には、娘を天皇の后にし、生まれた皇子を次の天皇にすることで、藤原氏は外祖父として実権を握り続けたのです。
院政とは何か
院政は天皇が位を譲った後、上皇(院)として院庁から政治を動かすシステムを指します。
1086年に白河上皇が始めたとされ、およそ100年以上にわたって続きました。
上皇は院庁という独自の組織を持ち、院司と呼ばれる職員や北面の武士を配置して、天皇を超える権力を握りました。
決定的な違い|外部と内部
最大の違いは「誰が実権を握るか」です。
摂関政治では藤原氏という外部の一族が権力を持ちましたが、院政では天皇家の血筋(上皇)が実権を握りました。
教室で説明するとき、私はよく「摂関政治は天皇家の外から操る政治、院政は天皇家の内側から操る政治」と表現していました。
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摂関政治と院政の比較表|5つの項目で徹底比較

両者の違いを表で整理すると、より理解が深まります。
【表:摂関政治と院政の5項目比較】
| 項目 | 摂関政治 | 院政 |
|---|---|---|
| 時期 | 10~11世紀前半(約150年間) | 11世紀末~12世紀(約100年間) |
| 実権者 | 藤原北家(摂政・関白) | 上皇(院) |
| 権力基盤 | 天皇の外戚関係・荘園 | 院庁・院司・北面の武士 |
| 全盛期の人物 | 藤原道長・頼通 | 白河上皇・後白河上皇 |
| 衰退理由 | 後三条天皇即位(藤原氏の外戚でない) | 平氏の台頭・保元の乱 |
この表を見ると、摂関政治が外戚関係に依存していたのに対し、院政は血統そのものが権力の源泉だったことがわかります。
したがって、摂関政治は「外戚関係が途絶えると崩壊する」という構造的弱点を抱えていました。
一方、院政は天皇家内部の権力争いを引き起こすという別の問題を生みました。
院政が始まった背景|白河上皇の狙い

後三条天皇と摂関政治の終焉
院政が始まった背景を理解するには、後三条天皇の存在が重要です。
1068年に即位した後三条天皇は、約170年ぶりに藤原氏を外戚としない天皇でした。
彼は記録荘園券契所を設置して荘園整理を進め、藤原氏の経済基盤を削ぐ政策を実行しました。
白河上皇の院政開始
後三条天皇の子である白河天皇は、1086年に8歳の息子・堀河天皇に位を譲り、自身は上皇として院政を始めます。
この狙いは「自分の血統が確実に皇位を継承する」ようにするためでした。
つまり、藤原氏のような外部勢力に権力を奪われないよう、天皇家内部で権力を保持し続ける仕組みを作ったのです。
白河上皇は院庁を設置し、院司と呼ばれる側近を配置し、北面の武士を警備にあてました。
こうして、天皇を超える権力機構が朝廷の中に誕生したわけです。
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院政時代の社会動向|武士の台頭

北面の武士と武士団の形成
院政時代は、武士の力に頼った時代ともいえます。
院は警備のために北面の武士を登用し、平氏・源氏などの武士団が朝廷と結びつきました。
源義家や平正盛が武士団をつくり、側近として勤務した点も重要です。
地方での武士の勢力拡大
武士の存在は、都だけではなく地方にも大きな影響を与えます。
特に有名なのが、平泉を拠点としていた奥州藤原氏です。
藤原清衡・基衡・秀衡の3代で勢力を築き上げ、北方の地域との交流を深めました。
中尊寺金色堂は、今も岩手県の文化遺産として世界的に知られています。
このように、院政期は貴族と武士の関係が良い意味でも悪い意味でも深まった時代でした。
経済的基盤を確保するうえで武士の存在は欠かせなかったものの、その一方で各地で反乱が生まれる要因にもなったのです。
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現代にも残る「院政」という言葉

政治の世界での「院政」
「院政」という言葉は、現代でも比喩的に使われています。
政治の世界では、首相や党首を退任した後も影響力を行使し続けることを「院政を敷く」と表現します。
表向きの地位を離れても実権は手放さないという点が、平安時代の上皇と共通しています。
企業での「院政」
企業では、社長を退任して会長や相談役になった後も実権を握り続けることを「院政」と呼びます。
東芝の相談役問題など、責任はないのに権限だけがあるという構造が批判されてきました。
教師時代、現代ニュースと歴史用語を結びつけると、生徒の理解が格段に深まりました。
「院政」はまさにその好例です。
Q&Aで振り返る院政と摂関政治
Q1:院政と摂関政治の最大の違いは何ですか?
摂関政治は藤原氏という外部の一族が天皇の外戚として権力を握る仕組みで、院政は上皇(天皇家内部)が実権を握る仕組みです。
権力の源泉が「外部」か「内部」かという点が決定的に異なります。
Q2:摂関政治はなぜ衰退したのですか?
1068年に即位した後三条天皇が藤原氏を外戚としなかったため、藤原氏の権力基盤が崩れました。
外戚関係に依存していた摂関政治は、この血縁関係の途絶によって終焉を迎えました。
Q3:院政はなぜ始まったのですか?
白河上皇が自分の血統(息子の堀河天皇)を確実に皇位に残すため、退位後も政治を主導することを選びました。
また、藤原氏の摂関政治から権力を取り戻す意図もありました。
Q4:院政時代に武士が台頭した理由は?
院が警備のために北面の武士を登用し、平氏・源氏などの武士団が朝廷と結びついたためです。
これが後の武家政権誕生につながりました。
Q5:受験で押さえるべきポイントは?
摂関政治の全盛期は藤原道長・頼通の時代、院政の開始は白河上皇(1086年)、衰退のきっかけは保元の乱(1156年)という年号と人物名のセットを覚えましょう。
また、「外戚関係」「院庁」「北面の武士」といったキーワードも頻出です。
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筆者紹介|なおじ
元社会科教師として35年間教壇に立ち、小学校・中学校で日本史を教えてきました。