こんにちは、なおじです。
「江戸時代の身分制度は士農工商で固定されていた」――中学校の教科書でこう習った方も多いでしょう。
しかし、実際の江戸時代の暮らしは、この単純な図式では説明できない複雑さと矛盾を抱えていました。
身分制度の実態は、教科書が描くような固定的なピラミッドではなく、経済力が序列を変動させる流動的な社会だったのです。
この記事では、35年間社会科を教えてきた経験から、江戸時代の身分制度がどのように機能し、人々の暮らしにどう影響を与えたのか、そして明治時代にどう引き継がれたのかを整理していきます。

この記事でわかること
- 教科書的な「士農工商」イメージと実際の江戸社会のギャップ
- 経済力が身分を超えた具体例(豪商・豪農・困窮武士)
- 身分制度が税制・婚姻・教育・居住に与えた実質的影響
- 「士農工商=固定的」というイメージが作られた明治以降の経緯
- 江戸の身分意識が明治の差別構造にどう継承されたか
- 壬申戸籍における差別的記載と1968年まで続いた悪用の実態
- 現代社会に残る「見えない序列」との比較視点
教科書で習う「士農工商」の基本構造
江戸時代の身分制度といえば、多くの人が「士農工商」という言葉を思い浮かべるでしょう。
武士が最上位、次に百姓(農民)、職人、商人という序列で、人々は生まれながらにして身分が決まり、一生その枠から抜け出せなかった――これが教科書的な理解です。
江戸幕府がこうした身分秩序を必要とした理由は明確でした。
全国260以上の藩を統制し、年貢を確実に徴収し、治安を維持するためには、人々を明確な枠に当てはめて管理する必要があったのです。
武士には支配者としての役割、百姓には米の生産者としての役割、町人には経済活動の担い手としての役割を割り振ることで、江戸幕府は260年以上にわたる長期安定政権を実現しました。
しかし、この「教科書的イメージ」は、実は江戸時代の実態を正確に反映していません。
実際の社会は、もっと流動的で、矛盾に満ちていたのです。
身分制度の実態は「固定的」ではなかった

経済力が身分を超えた社会
「士農工商の身分は、本当に動かなかったのか」――この問いに対する答えは「No」です。
確かに法律上は身分の移動は制限されていましたが、経済力が身分を超える場面は数多くありました。
例えば、武士階級の中でも下級武士は極めて貧しく、内職や商売で生計を立てる者が少なくありませんでした。
江戸時代後期には「武士は食わねど高楊枝」という言葉が生まれましたが、これは武士のプライドを表すと同時に、実際には食べるものにも困る武士が多かったことを示しています。
豪商・豪農の台頭と実質的な力
一方で、町人(商人)の中には豪商と呼ばれる大富豪が登場しました。
大阪の淀屋、江戸の三井家などは、大名に金を貸し付けるほどの財力を持ち、実質的には武士よりも高い社会的影響力を持っていました。
版元として活躍した蔦屋重三郎のように、文化・出版を通じて江戸の世論を動かした町人も存在しました。
「金持ちの町人が困窮した武士を支援する」という逆転現象が、江戸時代後期には珍しくなかったのです。
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さらに、百姓の中にも「豪農」と呼ばれる大地主が存在しました。
彼らは広大な土地を所有し、多くの小作人を抱え、時には村の政治を動かすほどの力を持っていました。
身分は「百姓」でも、実態は地域の支配者だったのです。
朱子学と現実のズレ
このように、江戸時代の身分制度は「固定的」というより、経済力によって実質的な序列が変動する社会でした。
朱子学を日本に広めた林羅山は、儒教思想によって身分秩序を正当化しようとしましたが、現実はその理論通りには動かなかったのです。
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また、江戸時代には「士農工商」の外側に置かれた人々も存在しました。
被差別身分とされた人々は、公的には「穢多」「非人」などと呼ばれ、居住地や職業が制限されていました。
この差別構造は、明治時代の解放令後も形を変えて残り続けることになります。