MENU

桜田門外の変の裏話——有村次左衛門と前夜の仮祝言・23歳の覚悟

こんにちは、なおじです。

桜田門外の変で大老・井伊直弼の首を挙げた有村次左衛門は、変の前日の夜に仮祝言を挙げた妻がいました。

数え年23歳。

死ぬことを前提に、それでも盃を交わした青年の覚悟とは何だったのか。

今回は、有村次左衛門にまつわる、あまり語られない哀しい裏話をお伝えします。

桜田門外の変(茨城県立図書館蔵)

この記事でわかること

  • 桜田門外の変が起きた理由と背景
  • 有村次左衛門がなぜ選ばれたか
  • 前夜の仮祝言の相手・日下部松子と母・静の物語
  • 変後の有村次左衛門の最後と自刃の場所
  • 兄・有村雄助の悲劇的な末路
  • 日下部家を継いだ海江田信義とは誰か
スポンサーリンク
目次

桜田門外の変——なぜ幕末最大の暗殺は起きたか

井伊直弼に切りかかる有村次左衛門(国立国会図書館)

安政の大獄が生んだ激しい怒り

1858年(安政5年)、江戸幕府の大老に就任した井伊直弼は、勅許を得ないまま日米修好通商条約を締結しました。

さらに将軍継嗣問題で一橋派を押しのけ、反対派を徹底的に弾圧していきます。

これが安政の大獄です。

吉田松陰・橋本左内ら8名が処刑され、尊王攘夷派の百名以上が処罰されました。

この弾圧に対し、水戸藩士たちの怒りは頂点に達していたのです。

雪の桜田門——1860年3月24日の朝

安政7年(万延元年)3月3日、旧暦の桃の節句の朝のことです。

現在の歴に換算すると1860年3月24日。

東京に季節外れの大雪が降っていました。

朝五つ半(午前9時過ぎ)、井伊直弼は総勢約60名の供を従えて、彦根藩上屋敷から江戸城に向けて登城の途中でした。

そこへ、水戸浪士17名と薩摩藩士1名、計18名が一斉に襲いかかります。

水戸浪士のひとりが放った弾丸が直弼の太ももから腰を貫通し、動けなくした。

桜田門外の変の幕が上がった瞬間でした👉関連記事:水戸学とは何か?前期水戸学の特徴

有村次左衛門はどんな人物だったか

薩摩から単身参加した北辰一刀流の使い手

水戸浪士17名の中に、一人だけ薩摩藩士がいました。

有村次左衛門(ありむら じざえもん)です。

薩摩藩生まれの彼は、北辰一刀流の使い手として知られ、剣の腕は浪士の中でも際立っていたといいます。

水戸藩士たちから「直弼の首を討つ」という最も重要な役割を任されたのも、その実力を認められていたからでしょう。

23歳が井伊直弼の首を挙げるまで

井伊の駕籠が桜田門外で襲われた瞬間、有村は真っ先に斬り込みます。

動けなくなっていた直弼を駕籠から引きずり出し、刀で斬りかかった。

しめたり!

有村の叫び声とともに、大老・井伊直弼の首は落ちました。

有村はその首を刀の切っ先に貫き、何やら薩摩言葉で叫んだといいます。

その雄叫びを聞いた浪士たちは刀を納め、それぞれ引いていきました。

数え年23歳の青年が、幕末の歴史を動かした瞬間でした。

前夜の仮祝言——有村次左衛門と日下部松子の哀話

桜田門付近

日下部伊三次——安政の大獄で命を落とした父

有村次左衛門の妻となったのは、日下部伊三次(くさかべいそうじ)の娘・松子でした。

日下部伊三次は元薩摩藩士でしたが、のちに水戸徳川家に出仕。

水戸藩の尊王攘夷派と深く結びついていた人物です。

1858年(安政5年)、安政の大獄で捕縛され、獄中で厳しい拷問を受けます。

冬の極寒の中でむち打たれ、全身の皮が裂け、体力が尽きて病没しました。

一説には毒殺ともいわれています。

長男・祐之進もその翌年、獄中で亡くなりました。

つまり、松子にとって井伊直弼は、父と兄を奪った仇だったのです。

吉田松陰が絶賛した日下部伊三次の言葉

安政の大獄で共に命を落とした吉田松陰は、処刑前日に書き残した「留魂録」の中で日下部伊三次をこう記しています。

「幕府による取り調べの際、今の政治の過失を列挙して非難し、『こんな様では幕府は3年〜5年のうちに滅びる』と言った。これを聞いて激しく怒った奉行に対し、日下部は『このように言った以上、死罪となっても悔いはない』と言った。この決死の言行は、とても僕の及ぶところではない。」

松陰ほどの人物に「及ばない」とまで言わしめた男の娘が、有村次左衛門の妻になるのです。

なおじが歴史を調べていて、ぐっとくる場面のひとつです。

三度の断りと、前夜の仮祝言

日下部家の母・静は、人を介して有村次左衛門に娘との縁談を申し入れます。

しかし次左衛門は断りました。

自分は既に死ぬことが決まっている。その自分が他家の婿に入ることはできない。

その後、松子の夢枕に亡き父・伊三次が現れ、「次左衛門を養子とし、汝はその妻となれ」と告げます。

静は改めて縁談を申し入れますが、今回も次左衛門は丁重に断りました。

ところが、いよいよ変の前日となった夜、静は涙ながらに懇願します。

「次左衛門様、どうか、どうか日下部の養子となり、娘を娶っていただけませんか。」

次左衛門は、「そこまで思ってくださるのなら」と承諾し、そのまま仮祝言の杯を交わしました。

二人は歌を交わし合ったといいます。

春風にさそはれてちるさくらばな とめてとまらぬわが思ひかな

君がためつくす真心 天津日の雲の上まで匂ひゆくらん

翌朝、有村次左衛門は桜田門外へ向かいました。

変後——有村次左衛門の最後と兄・雄助の末路

自刃の場所——辰ノ口付近(現パレスホテル東京付近)

首を討ち取った有村次左衛門は、そのまま幕府高官の館へ自首しようと歩き始めます。

ところが、倒れていた彦根藩士・小河原秀之丞が起き上がり、背後から切りつけました。

有村の背が朱に染まります。

水戸浪士が助太刀して小河原を返り討ちにしましたが、有村はすでに重傷でした。

それでも北へ約1キロ進み、現在のパレスホテル東京付近(辰ノ口付近)で力尽きます。

そこで覚悟を決め、自刃して果てました。

数え年23歳でした。

変後、雪に染まる現場では、息のある者たちを探して歩く女性の姿があったといいます。

日下部家の松子だったと伝えられています。

兄・有村雄助——弟の意志は届かなかった

桜田門外の変は、実は実行だけが計画ではありませんでした。

兄・有村雄助は変の「総帥格」として、別の使命を担っていました。

水戸の金子孫次郎とともに朝廷へ働きかけ、

「皇室復興と政治改革を命じる勅命」を引き出す。

さらに、京にいる薩摩藩兵3千が呼応して動く——そういう壮大な計画でした。

しかし島津藩主・島津茂久(後の忠義)と国父・久光は「時期尚早」として動かなかった。

有村雄助と金子孫次郎は今の三重県四日市付近で薩摩藩士に捕縛され、そのまま薩摩へ護送されます。

そして藩命により自刃に処せられました。

弟・次左衛門が命を懸けて成し遂げた桜田門外の変でしたが、計画全体は徒労に終わります。

有村兄弟の同志だった大久保利通も、「一同の愁傷憤激、言葉にできない」と述べています。

なおじが元社会科教師として感じるのは、歴史の変わり目には必ず「時代を先取りしすぎた若者」がいるということ。

有村兄弟はその典型でした。

川柳:桜田の 雪に散りゆく 若桜

日下部家のその後と海江田信義

婿を失った日下部家を継いだのは誰か

次左衛門が自刃したことで、日下部家は跡継ぎを失います。

その後、日下部家を継いだのは次左衛門・雄助兄弟のさらに上の兄でした。

「弟たちの義理をはたすため」として婿入りし、日下部俊斎と名乗ります。

後の海江田信義——日下部家の新たな歴史

日下部俊斎は後に海江田信義となり、薩摩藩士として明治維新において活躍します。

海江田信義(1832〜1906年)は、倒幕運動・明治維新において重要な役割を担った人物です。

兄弟の意志を継いで日本の夜明けを見届けた彼の人生は、桜田門外の変から始まった一本の線でつながっています。

日下部家の母・静がどれほどの思いで次左衛門に縁談を申し入れたか。

その思いは、海江田信義という形で歴史に刻まれました。

👉関連記事:蜂須賀小六の家系図と子孫|野盗説の真相と500年の血脈

👉関連記事:海江田信義とは何をした人物か|生麦から子爵への軌跡

よくある質問

Q1.桜田門外の変はいつ・どこで起きたか?

1860年3月24日(旧暦・安政7年3月3日)の朝、江戸城の桜田門外(現在の東京都千代田区霞が関付近)で起きました。

大老・井伊直弼が登城途中に水戸浪士17名・薩摩藩士1名の計18名に襲撃され、暗殺された事件です。

当日は季節外れの大雪が降っており、その雪と血のコントラストが多くの絵師によって描かれました。


Q2.有村次左衛門はなぜ一人だけ薩摩から参加したのか?

桜田門外の変は主に水戸浪士が主導しましたが、薩摩藩内にも井伊直弼の安政の大獄に強い怒りを持つ者がいました。

有村次左衛門はその一人で、兄・有村雄助とともに計画に加わりました。

薩摩藩全体として公式に参加したわけではなく、あくまで個人の意志による参加でした。

薩摩藩上層部は変の計画を「時期尚早」として支持しなかったことが、後の兄・雄助の悲劇につながります。

Q3.有村次左衛門の妻・日下部松子のその後は?

記録には詳しく残されていませんが、変後に雪の中で生存者を探して歩く女性の姿が目撃されており、それが松子だったと伝えられています。

次左衛門が自刃した後、日下部家の跡取りは有村兄弟の上の兄(後の海江田信義)が継ぎました。

松子自身のその後の記録は管見の限り確認されていません。

Q4.日下部伊三次と吉田松陰の関係は?

二人はともに安政の大獄の犠牲者です。

吉田松陰は処刑前日に書いた「留魂録」の中で、日下部伊三次を「決死の言行は、とても僕の及ぶところではない」と絶賛しました。

松陰は日下部の姿勢に影響を受け、自らの言動を決定した可能性もあるといわれています。

👉関連記事:今話題の水戸学って何?深作安文先生が教えてくれた「らしさ」


Q5.桜田門外の変の後、幕府はどうなったか?

幕府最高実力者・大老の暗殺という衝撃的な事件により、幕府の権威は著しく失墜しました。

以後、幕府は強硬路線から公武合体路線へと転換を余儀なくされ、天皇家との結婚(和宮降嫁)などで権威回復を図ります。

しかし実質的には、桜田門外の変が幕府崩壊へのカウントダウンの始まりだったと言えます。

変から8年後の1868年、明治維新が実現しました。

筆者紹介|なおじ

なおじは元社会科教師として教育現場に35年間携わり、指導主事を5年、校長を11年務めました。退職後もボランティアで子どもたちに学習を教えています。

社会科の授業では桜田門外の変を何度も教えてきましたが、「有村次左衛門が前夜に仮祝言を挙げていた」という事実を知ったとき、教壇の上で思わず詰まりそうになったのを覚えています。歴史は数字や出来事だけではなく、そこに生きた人間の「物語」であると、改めて感じた話です。

現在は8つのブログでドラマ芸能政治歴史スポーツ学び書評を書いています。

ドラマ観るなら<U-NEXT>
よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする

日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)

目次