
幕末の知られざる英雄・鱸重時~日の丸誕生を支えた国旗研究の第一人者
ペリー来航で日本中が大騒ぎとなった1853年。
でも実は、その数年前から水戸藩には「世界の国旗のエキスパート」がいたって知ってますか?
その人こそ、鱸重時(すずきしげとき)という蘭学者なんです。
彼の名前、聞いたことありますか?
きっと多くの人が初耳だと思います。
でも、もしかしたら日本の歴史上、最も重要な瞬間に影響を与えた隠れた英雄の一人かもしれません。
激動の時代背景:外国船が次々とやってくる恐怖の日々
まずは当時の状況を想像してみてください。
江戸時代後期、日本の周りには得体の知れない外国船がウロウロしている状況を。
現代でいえば、正体不明のドローンが日本領空を飛び回っているような、そんな恐怖感だったでしょう。
年代 | 事件 | 詳細 | 日本への影響 |
---|---|---|---|
1792年 | ロシア・ラクスマン根室来航 | 漂流民送還を名目に通商要求 | 鎖国体制に初の亀裂 |
1808年 | イギリス船フェートン号事件 | 偽のオランダ旗で長崎侵入 | 旗の識別の重要性が浮き彫りに |
1837年 | アメリカ商船モリソン号事件 | 漂流民送還目的も幕府が砲撃 | 攘夷論の高まり |
1844年 | オランダ国王親書 | 開国勧告書を幕府に送付 | 幕府内で開国論議開始 |
この時代、どの旗がどの国のものか分からないというのは、まさに死活問題だったんです。
特にフェートン号事件では、イギリス船がオランダの旗を掲げて堂々と長崎港に入港したため、日本側は完全に騙されてしまいました。
この事件以降、「旗の正確な識別」は国防上の最重要課題となったのです。
水戸藩という特殊な環境~学問の府「弘道館」
鱸重時が活動した水戸藩は、単なる地方の藩ではありませんでした。
徳川御三家の一つとして、常に幕政に深く関わり、特に対外政策については独自の見解を持っていたんです。
水戸藩の特徴:
- 徳川光圀以来の学問尊重の伝統
- 『大日本史』編纂という一大プロジェクト
- 尊王攘夷思想の中心地
- 実用的な学問(蘭学含む)の奨励
そして1841年に開設された弘道館は、当時としては画期的な教育機関でした。
武芸だけでなく、医学、天文学、蘭学など、幅広い分野の教育を行っていたんです。
現代でいえば、総合大学のような存在だったと考えてもいいでしょう。
弘道館で育った国際派エリート
鱸重時は1843年、28歳頃に水戸藩の名門校「弘道館」で働き始めました。
水戸藩主・徳川斉昭の命令で蘭学を本格的に学び、やがて水戸藩有数の蘭学者に成長していったんです。
当時の蘭学者って、現代でいえばIT関係の専門家みたいな存在。
最先端の知識を持つ、超貴重な人材でした。
でも、蘭学を学ぶのは今の外国語学習とは比べものにならないほど困難だったんです。
当時の蘭学習得の困難さ:
- 辞書がほとんど存在しない
- 師匠から弟子への口伝中心
- オランダからの書籍入手は極めて限定的
- 一冊の本を何人もで写筆して共有
そんな中で重時は、持ち前の努力と才能で、短期間のうちに蘭学をマスターしていったんです。
特に地理学と軍事技術に関する知識は、水戸藩内でも群を抜いていたといわれています。
驚きの業績①:精密な地球儀を手作り~現代でも通用する技術力
1852年、重時は手作りの地球儀を完成させ、斉昭に献上しました。
これがあまりにも精巧だったため、幕府と朝廷にまで献上されることになったんです。
江戸時代に手作りで地球儀なんて、想像しただけでもすごくないですか?
現代でも、正確な地球儀を一から作るのは相当な技術と知識が必要です。
地球儀制作の技術的困難さ:
- 正確な世界地図の入手
- 球体表面への正確な投影技術
- 緯度・経度の精密な計算
- 耐久性のある材料の選定と加工
重時の地球儀は、単なる工芸品ではありませんでした。
当時の日本人にとって、「世界とはこういう形をしている」ということを視覚的に理解できる、貴重な教育ツールだったのです。
驚きの業績②:日本初の本格軍艦「旭日丸」を指揮~失敗を乗り越えた執念
1853年11月、重時は「大船製造懸」に任命され、日本初の西洋式軍艦「旭日丸」の建造を指揮することになりました。
でも、この旭日丸、実は大変な苦労の末に完成したんです。
現代の造船技術から見れば初歩的なミスでも、当時の日本には西洋式造船の知識がほとんどありませんでした:
旭日丸建造の苦難:
- 船体が重すぎて進水に失敗
- 横転事故まで発生
- 「厄介丸」というあだ名まで付けられる始末
- 約2年半の歳月と膨大な費用
それでも諦めずに完成させた重時の執念、すごいですよね。
失敗を恐れず、試行錯誤を繰り返す姿勢は、現代の研究者やエンジニアにも通じるものがあります。
本業:世界最高レベルの国旗研究~『万国旗章図譜』の驚異的内容
そして重時の真骨頂が、1851年に完成させた『万国旗章図譜』です。
これはペリー来航の2年前に完成していた、当時としては驚異的な国旗研究書でした。
現代でも、これほど詳細な国旗研究書を作るのは大変な作業です。
インターネットもない時代に、どうやってこれほどの情報を集めたのでしょうか?
情報収集方法(推測):
- 長崎オランダ商館からの情報
- 漂流民からの聞き取り調査
- 海外文献の翻訳と分析
- 他藩の蘭学者との情報交換
収録内容の豊富さがハンパない:
- ヨーロッパ各国の国旗
- アメリカの星条旗
- 各国の軍艦旗、商船旗まで詳細に分類
- 特にオランダについては24種類もの旗を収録
- 国旗の歴史的変遷まで記載
この本の精度の高さは、後の研究者も驚嘆するレベルでした。
特にイギリス国王旗の紋章については、同時代のどの文献よりも正確だったといわれています。
幕府の役人たちは、この本を懐に忍ばせて各地に出向き、
「あの船はどこの国のどんな種類の船だ」と判断していたんでしょうね。
まさに江戸時代の「国旗識別マニュアル」だったわけです。
日の丸誕生の陰の立役者?~斉昭の決断を支えた専門知識
1854年、日米和親条約締結後、日本船と外国船を区別する必要が生じました。
最初、幕府は「白地に中黒」の旗を国旗候補としましたが、斉昭が強く反対。
**「日の丸こそ日本にふさわしい」**と主張し、ついに日の丸が日本の総船印となりました。
この時、斉昭が重時の豊富な国旗知識を参考にしたのは間違いないでしょう。
世界中の国旗を知り尽くした重時だからこそ、**「日の丸の美しさと独自性」**を斉昭に説明できたのかもしれません。
日の丸選択の合理性:
- シンプルで視認性が高い
- 遠くからでも識別しやすい
- 他国の国旗との重複がない
- 日本の伝統的象徴(太陽)を使用
- 製作コストが安い
現代の企業ロゴ制作でも重視される「シンプルさ」「識別性」「象徴性」を、江戸時代にすでに満たしていたんですね。
世界史的視点で見る重時の功績
重時の業績を世界史的に見ると、その先進性がより際立ちます。
19世紀中期は、ヨーロッパでも国旗の標準化が進んでいた時期でした。
同時代の世界の動き:
- 1848年:フランス二月革命で三色旗復活
- 1849年:ドイツ連邦の国旗制定
- 1850年代:イタリア統一運動で三色旗普及
つまり、重時は世界の国旗標準化の動きをリアルタイムで把握し、
それを日本の国旗選択に活かしていたと考えられるのです。
現代に受け継がれる重時の遺産~国際化時代への示唆
重時の研究があったからこそ、日本は混乱の時代を乗り切れたといっても過言ではありません。
そして彼の努力の結晶である日の丸は、今も私たちの国旗として世界中で愛され続けています。
「敗戦国にもかかわらず国旗が変更されなかったのは、日本がほとんど唯一の例」
これも、重時たちが心を込めて選んだ日の丸の普遍的な美しさの証明かもしれませんね。
現代の私たちにとって、重時の姿勢から学べることはたくさんあります:
現代への教訓:
- 専門知識の重要性(情報戦略)
- 国際的視野の必要性(グローバル化)
- 失敗を恐れない挑戦精神(イノベーション)
- 地道な研究の積み重ね(専門性の追求)
重時という人間像~完璧ではない、だからこそ親しみやすい
旭日丸の失敗エピソードからも分かるように、重時は決して完璧な人ではありませんでした。
でも、だからこそ私たちにとって親しみやすい存在でもあります。
現代の研究者や技術者も、日々失敗と成功を繰り返しながら前進しています。
AI時代の今だからこそ、人間の知恵と努力で国の危機を救った重時の姿は、私たちに大切なことを教えてくれます。
今こそ知ってほしい、重時という人~水戸への新たな視点
水戸といえば、多くの人が納豆や偕楽園を思い浮かべるでしょう。
でも、重時のエピソードを知ると、水戸の歴史的重要性がまた違って見えてきませんか?
水戸を訪れる際は、ぜひ重時のことも思い出してみてください。
弘道館の片隅で、世界地図と格闘していた一人の男性の姿を想像しながら歩くと、また違った感動があるかもしれません。
一人の研究者の地道な努力が、歴史を動かすこともある。
そんな希望に満ちたメッセージを、重時は現代の私たちに残してくれているのです。
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