MENU

明智光秀の墓完全ガイド:京都から高野山まで全6ヵ所の見どころ

なぜ光秀の墓だけが、これほど愛され続けるのでしょう?

どうも、歴史好きブロガーのなおじです!

本能寺の変で織田信長を討った明智光秀。

歴史では「謀反人」とされる彼の墓が、実は京都を中心に6ヵ所も存在するって知ってました?

しかも驚くことに、400年以上も地元の人々によって大切に守られ続けているんです。

首塚、胴塚、桔梗塚…

それぞれに異なる物語と伝承が息づいているのが本当に面白くて。

和菓子店の女将さんが代々守る首塚もあれば、生存説の根拠とされる謎めいた桔梗塚もあるんですよ。

一体なぜ、これほど多くの人が光秀の墓を守り続けるのか。

そんな疑問を抱きながら、今回は光秀ゆかりの地を巡る完全ガイドをお届けします。

きっと「え、こんなところにも!?」って驚いちゃうはずです。

このブログを読むとわかること:

・🗺️ 明智光秀の墓が6ヵ所もある謎の背景と歴史的理由
・🔍 首塚、胴塚、桔梗塚それぞれの違いと特徴
・🏃‍♂️ 光秀生存説の根拠と信憑性の真相
・🚗 効率的な墓巡りルートとアクセス方法
・👪 400年続く墓守文化の感動的な物語
・🎭 大河ドラマでは描かれない光秀の真の人間像
・💰 各地で買える光秀グッズとお土産情報
・🏛️ 歴史ロマンを感じられる見どころポイント

スポンサーリンク
目次

1. 光秀の墓が複数存在する歴史的背景

明智光秀の墓が各地にあるのって、実は光秀の最期が謎だらけだからなんです。

普通、戦国武将の墓って一つですよね?

でも光秀だけは例外。

その背景には、遺体の行方が不明確だったことと、なんと光秀への同情的な感情があるんです。

山崎の戦いから小栗栖での最期まで

天正10年(1582年)6月13日、光秀は山崎の戦いで羽柴秀吉にあっけなく敗北してしまいました。

光秀は近江の坂本城を目指して必死に逃走中、京都市伏見区小栗栖の竹薮で農民に襲われちゃうんです。

竹槍で刺されて重傷を負い、深緑の竹薮の中で自刃。

家臣の溝尾茂朝(みぞおしげとも)が介錯したとされているんですが、なんとも悲しい最期ですよね。

遺体の行方をめぐる諸説

ここからが謎だらけなんです!

光秀の首と胴体は別々に処理されました。

首は家臣によって知恩院へ運ばれる途中、夜が明けたため東山区に埋められたとされているんですが…

一方で『明智軍記』では、敵兵が首を掘り出して秀吉方に渡したという記録もあるそうです。

でも一番重要なのは、秀吉が首実検を行わなかったこと。

「あれ?本当に光秀?」って疑問が残ったわけです。

これが後の生存説の根拠となっているんですよ。

2. 京都の首塚:400年守られ続ける謎

京都市東山区梅宮町の首塚は、最も有名な明智光秀の墓の一つです。

私も実際に訪れたことがありますが、この首塚の最大の特徴は、和菓子店「餅寅」の川嶋家が400年以上にわたって代々管理していることなんです。

もう感動しちゃいました。

「400年以上も墓がまもられてきたという話を聞くと、明智光秀生存説は信憑性が増してくる」

というネット上の声もあって、この継承の物語に多くの人が心を打たれているんですね。

首塚の歴史と伝承

首塚は三条白川南側の路地奥にひっそりと佇んでいます。

五重の石塔が立てられており、この塚に詣って祈願すると首から上の病気に霊験があるという言い伝えがあるんです。

「頭痛持ちの私には最適かも!」なんて思っちゃいました。

現在の場所は元の場所から移されたようですが、光秀への供養の心は全く変わっていません。

400年ですよ、400年!すごくないですか?

アクセスと見どころ

項目詳細
場所京都市東山区梅宮町
最寄り駅京都市営地下鉄東西線・蹴上駅
特徴桔梗の紋入り「光秀饅頭」販売
管理者和菓子店「餅寅」川嶋家
見どころ桔梗紋が刻まれた水鉢

入口にある和菓子店では、紫色の桔梗の紋が美しい「光秀饅頭」も販売されているんです。

光秀ファンなら絶対に買わずにはいられないスポットですよ!

3. 山科の胴塚と高野山の供養塔

山科の胴塚は昭和45年建立の比較的新しい石碑なんですが、高野山の供養塔は光秀の家臣によって建立された本格的な供養塔として対照的な存在。

この対比がまた面白いんです。

胴塚の現状と背景

京都市山科区勧修寺御所内町にある胴塚は、光秀の遺体が埋葬されたと伝えられる場所です。

実際には昭和45年(1970年)10月に地元山科の有志によって建立された石碑で、比較的新しいもの。

道沿いにありますが、初めて訪れる人には「あれ?どこ?」って見落としやすい場所にあります。

私も最初は通り過ぎちゃいました(笑)。

高野山奥の院の五輪塔

和歌山県高野山奥の院には、光秀家臣の津田重久(つだ しげひさ)が建立したとされる五輪塔があります。

恵光院が菩提寺となっており、過去帳には「惟任義盛明鑑光秀大禅定門」という戒名が記されているそうです。

でも興味深いのは、五輪塔の「水の石」は何度修復してもヒビが入るという不思議な現象があること。

「謀反人の光秀の供養塔の水の石は何度交換しても割れてしまう」

という伝説が語られており、訪問者からも「石が割れている話をガイドさんに聞きました。どうしても割れてしまう、そんな不思議な話を聞きました」という感想が。

なんだか背筋がゾクゾクしちゃいますよね。

4. 桔梗塚に隠された光秀生存説

岐阜県山県市の桔梗塚は、明智光秀の墓の中でも最も謎めいた存在です。

桔梗塚の最大の特徴は、なんと光秀生存説の根拠となっていることなんです。

ワクワクしません?

生存説の詳細と根拠

桔梗塚の伝承によると、山崎の戦いで死んだのは影武者で、光秀本人は郷里に落ち延びて「荒深小五郎」と名を変えて隠れ住んでいたとされているんです。

まるで忍者マンガのような展開ですよね!

光秀が身代わりとなった影武者「荒木山城守行信」への恩の深さから「荒深」という姓を名乗ったのだとか。

現在も地元の荒深氏一族によって年2回の供養祭が行われています。

ネット上でも話題になっていて:

「明智光秀が『荒深小五郎』と名前を変え、没後に荒深姓の人々によって400年以上も墓がまもられてきたという話を聞くと、明智光秀生存説は信憑性が増してくる」

なんて声も。

本当かもしれませんよね?

現地の状況とアクセス

桔梗塚は山県市中洞地区の白山神社に隣接する深緑の林の中にあります。

大河ドラマ「麒麟がくる」の影響で注目度が高まっており、歴史ロマンを感じる場所として大人気。

まさに「隠れ家」って感じの雰囲気なんですよ。

5. 西教寺と明智藪:光秀ゆかりの地

滋賀県大津市の西教寺は光秀の菩提寺として、京都の明智藪は最期の地として、それぞれ重要な意味を持っています。

どちらも訪れる価値ありです!

西教寺の光秀一族墓所

西教寺は天台真盛宗の総本山で、光秀が復興に力を入れた寺院なんです。

1571年の比叡山延暦寺焼き討ちで西教寺も被災しましたが、坂本城主となった光秀が復興に尽力しました。

西教寺の見どころ

  • ✓ 光秀一族の墓所
  • ✓ 光秀直筆の供養米寄進状
  • ✓ 坂本城の城門を移築した総門
  • ✓ 正室煕子の墓(桔梗紋付き)

長谷川博己さんも大河ドラマの主演決定後、ここを訪れて「文字から繊細なやさしさを感じる。芸術性もあった人なのでは」と光秀の人柄を推し量ったそうです。やっぱり俳優さんの目は違いますね!

明智藪と本経寺

光秀が最期を遂げた「明智藪」は、現在伏見区小栗栖の日蓮宗本経寺境内にわずかに残されています。

本経寺には光秀の供養塔も設置されており、最期の地として多くの人が訪れるスポット。

緑深い竹薮の中で光秀の人生が終わったと思うと、なんとも言えない感慨があります。

「ここで400年前に…」って考えると、時の流れを感じずにはいられませんね。

6. 光秀の墓巡り実践ガイド

明智光秀の墓巡りは、効率的なルートを組むことで2-3日で全ての場所を訪れることができちゃいます。

それぞれの墓が持つ異なる魅力を楽しめるのも墓巡りの醍醐味ですよね。

おすすめ巡礼ルート

【1日目:京都市内完全制覇コース】

  • 首塚(東山区)→ 胴塚(山科区)→ 明智藪(伏見区)

【2日目:滋賀でゆったりコース】

  • 西教寺(大津市坂本)

【3日目:遠征!和歌山・岐阜コース】

  • 高野山奥の院 → 桔梗塚(山県市)

大河ドラマ効果もあって、各地で光秀グッズも販売されているので、お土産探しも楽しめそうです。

私のおすすめは桔梗の家紋グッズですね!

各墓の特色まとめ

墓所名特徴感じられるもの
首塚400年続く墓守文化日本人の継承精神
桔梗塚生存説の根拠歴史ロマンと謎
高野山家臣による本格供養塔武士の忠義と鎮魂
西教寺光秀の善政を物語る菩提寺人間・光秀の真の姿
明智藪悲劇的な最期の地無常と哀愁

参拝時は静粛にし、地元の方々への感謝を忘れずに。

これらの墓が400年以上も守られ続けているのは、現代にも通じる「人を思いやる心」の表れなのかもしれませんね。

まとめ

いかがでしたか?

明智光秀の墓は全国に6ヵ所存在し、それぞれが異なる物語と魅力を持っているんです。

京都の首塚では400年続く墓守文化を、

桔梗塚では生存説のロマンを、

高野山では武士の魂の鎮魂を感じることができます。

謎多き光秀の最期を辿る墓巡りは、単なる観光を超えて、日本の歴史と文化の深さを実感できる貴重な体験となるでしょう。

謀反人とされながらも愛され続ける光秀。

その人間性の深さこそが、400年以上も人々に愛され続ける理由なのかもしれませんね。

2025年の今も、SNSでは「歴史を感じれる」「大切にされている祠、そんな雰囲気を感じました」といった感想が多数投稿されており、光秀への関心は衰えることがありません。

現代社会でも組織の理不尽に悩む人々にとって、光秀の生き方は一つの指標となっているのでしょう。

皆さんも、ぜひ光秀の墓巡りに挑戦してみてくださいね。

きっと新しい発見があるはずです!

最後まで読んでくださって、ありがとうございました!

このブログで明らかになったこと:

・🗺️ 光秀の墓が複数存在するのは遺体の行方が不明で首実検も行われなかったため
・🔍 首塚は400年続く墓守文化、桔梗塚は生存説の根拠、高野山は家臣の忠義の象徴
・🏃‍♂️ 「荒深小五郎」として生存した可能性を示す桔梗塚の伝承は歴史ロマンそのもの
・🚗 京都→滋賀→和歌山→岐阜の順で2-3日あれば全ての墓を巡ることが可能
・👪 和菓子店川嶋家による首塚管理は日本人の継承精神を表す貴重な文化
・🎭 謀反人でありながら善政で愛された光秀の複雑な人間性が墓に表れている
・💰 桔梗紋の光秀饅頭から家紋グッズまで各地で光秀ゆかりの品が購入可能
・🏛️ 各墓所で感じられる「武士の忠義」「歴史の謎」「継承の心」が現代人の心を打つ

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!
目次