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徳川綱吉の生類憐みの令は本当に悪法だったのか?教科書改訂で変わった歴史評価を元教師が徹底解説

こんにちは、なおじです。

「生類憐みの令」と聞いて、どんなイメージを思い浮かべますか?「犬を大切にしすぎた変な法律」「天下の悪法」と習った記憶がある方も多いのではないでしょうか。

なおじも教師時代、生徒たちに「徳川綱吉は犬公方と呼ばれた将軍」と教えていました。

ところが2025年7月、日本史の教科書が改訂され、綱吉と生類憐みの令の評価が180度変わりました

「悪法を作った暴君」から「儒教思想に基づいて社会改革を進めた名君」へ。歴史研究の進展が、私たちの常識を覆したのです。

犬公方

この記事でわかること

  • 生類憐みの令が出された江戸時代中期の社会背景
  • 「天下の悪法」という評価が生まれた本当の理由
  • 2025年教科書改訂で変わった綱吉の歴史的評価
  • 生類憐みの令が現代社会に残した影響
  • 元社会科教師が見る歴史教育の進化
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目次

生類憐みの令とは何か?歴史的背景と実態

生類憐みの令が出された江戸時代中期の社会状況

江戸幕府が開かれて約80年が経過した1680年代、日本社会には深刻な問題が山積していました。戦国時代の名残で「命を軽んじる風潮」が残っており、捨て子や病人・高齢者の遺棄が横行していたのです。

徳川綱吉が第5代将軍に就任したのは1680年。綱吉は儒教思想、特に朱子学の「仁」の精神を重視し、「生きとし生けるもの」を大切にする社会を目指しました。

1685年から1709年の綱吉の治世を通じて発布された一連の法令が、後に「生類憐みの令」と総称されるようになります。

当時の江戸の人口は約50万人とされ、都市化が進む中で動物虐待や人命軽視の事件が頻発していました。綱吉はこの状況を「道徳の荒廃」と捉え、法令による強制的な意識改革を断行したのです。

法令の内容と対象範囲

多くの人が「犬を保護した法律」と記憶している生類憐みの令ですが、実際の対象範囲は犬だけではありませんでした。法令は犬、猫、鳥、魚、貝、虫に至るまで、あらゆる生き物の殺生を禁じていたのです。

さらに重要なのは、動物保護だけでなく人間の保護も含まれていた点です。

捨て子の禁止、病人の保護、高齢者への配慮など、現代の福祉政策に通じる内容が盛り込まれていました。綱吉は「動物から始めて、最終的には人間同士の思いやりを育てる」という段階的なアプローチを取っていたと考えられています。

なおじが教師時代に使っていた教科書では、「犬小屋に莫大な費用をかけた」という記述が強調されていました。

しかし近年の研究では、犬小屋の運営費用は幕府財政全体から見れば決して過大ではなかったことが明らかになっています。

「犬公方」のイメージはどこから来たのか

綱吉が「犬公方」と呼ばれるようになったのは、実は綱吉の生前ではなく、死後のことです。8代将軍・徳川吉宗が「享保の改革」を進める際、綱吉の政治を批判的に評価することで、自らの改革を正当化しようとしました。

江戸時代の文学作品や講談において、綱吉は「犬を人間より大切にした変わった将軍」として描かれ、そのイメージが庶民の間に広まっていきます。特に「綱吉は戌年生まれだったから犬を保護した」という俗説は、後世の創作である可能性が高いとされています。

授業で生徒たちに「なぜ綱吉は犬を保護したの?」と聞かれたとき、なおじは「占い師に勧められたという説があるけど、本当は儒教の教えを実践したかったんだと思うよ」と答えていました。今になって、その直感が研究によって裏付けられたことに、歴史の面白さを感じています。

「天下の悪法」という評価が生まれた理由

江戸時代後期から明治期の歴史観

「天下の悪法」という評価が定着したのは、江戸時代後期から明治時代にかけてのことです。吉宗の享保の改革では「倹約・実利」が重視され、綱吉の政治は「無駄遣い」として批判されました。

👉関連記事:江戸時代の四つの改革は、当時の人々にどのような変化をもたらしたのか

明治時代に入ると、西洋の合理主義思想が流入し、**「動物保護に力を入れた綱吉は非合理的だった」**という評価が広がります。明治政府は「近代化・富国強兵」を推進する中で、江戸時代の政治を否定的に描く傾向があり、綱吉はその象徴として扱われたのです。

なおじが教員になった1980年代の教科書でも、綱吉は「悪政の例」として紹介されていました。当時は「生類憐みの令=極端な動物愛護=社会の混乱を招いた」という単純な図式で教えられていたのです。

講談・文学作品が作り上げた綱吉像

江戸時代の講談や文学作品は、庶民の娯楽として綱吉を「奇人」「変わり者」として描きました。「犬に金をかけすぎて庶民が苦しんだ」「犬を傷つけただけで死刑になった」といった誇張された話が広まり、綱吉のイメージは固定化されていきます。

特に有名なのが「犬小屋騒動」のエピソードです。綱吉が江戸近郊に大規模な犬小屋を建設し、数万匹の犬を保護したという話は事実ですが、その費用や規模は後世の創作によって誇張されました。

実際には、犬小屋の運営費は年間で現代の価値に換算すると数億円程度であり、幕府の年間収入(約400万石=現代価値で数兆円規模)から見れば、決して破綻を招くような額ではなかったのです。

現代研究が明らかにした財政面の真実

2000年代以降、古文書の再検証が進み、綱吉時代の幕府財政の実態が明らかになってきました。研究者たちは「生類憐みの令が財政を圧迫した」という通説に疑問を呈し、むしろ綱吉時代は経済的に安定していたという見解を示しています。

綱吉は「元禄文化」と呼ばれる文化の黄金期を築いた将軍でもあります。松尾芭蕉井原西鶴近松門左衛門といった文化人が活躍し、庶民の生活水準も向上しました。これは財政的余裕がなければ実現できないことです。

なおじの分析では、綱吉が「悪法を作った暴君」というイメージを持たれたのは、政治的な意図と文学的誇張が重なった結果だと考えています。歴史は常に「誰が、どのような意図で記録したか」によって姿を変える。これは教師時代から生徒たちに伝えてきたメッセージです。

2025年教科書改訂で変わった綱吉の評価

教科書記述の具体的な変化

2025年7月に改訂された日本史教科書では、徳川綱吉に関する記述が大幅に変更されました。従来の「犬公方」「悪法を作った将軍」という否定的な表現が削除され、**「儒教思想に基づいて社会改革を進めた将軍」**という評価に転換しています。

具体的には、以下のような変化が見られます:

  • 「生類憐みの令は天下の悪法」→「生類憐みの令は命を大切にする法令」
  • 「犬を異常に保護した」→「人間を含むあらゆる生命を保護しようとした」
  • 「財政を圧迫した」→「元禄文化を育んだ経済的安定期を築いた」

この変化は、2000年代以降の歴史学の成果を反映したものです。研究者たちは古文書の再検証を通じて、綱吉の政治が単なる「動物愛護の暴走」ではなく、儒教の「仁」の思想を実践した総合的な社会改革だったことを明らかにしました。

儒教思想「仁」の実践としての生類憐みの令

綱吉が生類憐みの令を発布した背景には、儒教、特に朱子学の「仁」の思想がありました。

「仁」とは、他者への思いやりや慈しみの心を意味します。綱吉は**「まず動物に対する慈しみを育て、それを人間同士の思いやりに発展させる」**という段階的なアプローチを取っていたのです。

当時の日本では、林羅山が広めた朱子学が幕府の公式思想となっており、綱吉自身も熱心な朱子学の信奉者でした。綱吉は「命を軽んじる風潮」を「道徳の荒廃」と捉え、法令による強制的な意識改革を断行しました。

👉関連記事:林羅山と朱子学を徹底解説!日本化された思想の特徴とその影響

なおじの見解としては、綱吉の試みは現代の「道徳教育」に通じるものがあると感じています。

法律で人の心を変えることはできませんが、社会全体のルールを変えることで、徐々に価値観を転換させることは可能です。綱吉はそれを300年以上前に実践していたのかもしれません。

元教師が見る歴史教育の進化

なおじが教師として35年間教壇に立つ中で、歴史教科書の内容は何度も変わりました。

「鎌倉幕府の成立年が1192年から1185年に変わった」「士農工商という身分制度が教科書から消えた」など、研究の進展によって「定説」は常に更新されています。

徳川綱吉の評価が変わったことも、その一例です。授業で生徒たちに「昔は悪い将軍と教えられていたけど、今は違うんだよ」と伝えるとき、生徒たちは目を輝かせて「なぜ変わったんですか?」と質問してきました。

歴史は「過去の事実」を学ぶだけでなく、「なぜその事実がそう解釈されてきたのか」「誰が、どのような意図で記録したのか」を問い直す学問です。綱吉の再評価は、私たち自身が持つ「思い込み」を見直すきっかけにもなるのではないでしょうか。

よくある質問|生類憐みの令Q&A

Q1:生類憐みの令で本当に犬を殺したら死刑になったの?

実際には、犬を殺しただけで即座に死刑になったわけではありません。法令違反の程度や状況に応じて、罰則は軽いものから重いものまで段階的に設けられていました。

ただし、悪質なケースでは厳しい処罰が科されたことも事実です。講談や文学作品では「犬を傷つけただけで死刑」という誇張された話が広まりましたが、実態はもっと柔軟な運用がなされていました。

元教師の立場から言えば、「極端な事例」ばかりが記憶に残るのは、歴史のあるあるですね。

Q2:綱吉はなぜ特に犬を保護したの?

綱吉が戌年生まれだったことから、占い師に「犬を大切にすれば子どもが授かる」と助言されたという俗説がありますが、これは後世の創作である可能性が高いとされています。

実際には、儒教の「仁」の思想を実践する一環として、最も身近な動物である犬から保護を始めたと考えられています。

犬は当時の江戸で最も多く飼われていた動物であり、虐待も頻発していました。綱吉は「まず身近な命を大切にする習慣を作り、それを人間同士の思いやりに発展させる」という戦略を取っていたのかもしれません。

Q3:生類憐みの令は綱吉の死後どうなったの?

綱吉の死後、6代将軍・徳川家宣によって生類憐みの令は即座に廃止されました。庶民の間では「ようやく厳しい法律がなくなった」と安堵する声もあったとされています。

しかし、動物や弱者を保護するという精神は江戸時代を通じて引き継がれ、日本人の倫理観に影響を与え続けました。吉宗の享保の改革でも「捨て子の禁止」などの政策は維持されており、綱吉の試みは無駄ではなかったと言えるでしょう。

Q4:生類憐みの令が現代社会に残した影響は?

生類憐みの令は、日本における「動物愛護」「福祉」の原点とも言える法令です。

綱吉の時代から300年以上経った現在、日本には動物愛護法があり、捨て子や高齢者の遺棄は犯罪として厳しく罰せられています。綱吉が目指した「命を大切にする社会」は、形を変えながら現代に受け継がれているのです。

👉関連記事:災害時でも列を崩さない日本人の精神|林羅山の朱子学が起源

なおじの分析では、綱吉の試みは「時代を先取りしすぎた改革」だったのかもしれません。300年後の私たちが、ようやくその価値を理解し始めているのではないでしょうか。

Q5:なぜ歴史の評価は変わるの?

歴史の評価が変わる理由は主に3つあります。

第一に、新しい史料が発見されること。第二に、研究手法が進歩すること。第三に、現代社会の価値観が変わることです。

綱吉の場合、古文書の再検証が進んだことと、現代社会で「命を大切にする」という価値観が重視されるようになったことが、評価の転換につながりました。

なおじが教師時代から生徒たちに伝えてきたのは、「歴史は固定されたものではなく、常に更新される学問だ」ということです。だからこそ、歴史を学ぶことは面白いのです。

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