こんにちは、なおじです。
江戸時代の「三大改革」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。享保の改革・寛政の改革・天保の改革の三つを指しますが、そこに田沼意次の時代を加えて「四つの改革」と呼ぶこともあります。
教師時代、この時代を授業で扱うとき、生徒たちはいつも「なぜ同じような改革を繰り返したのか」と疑問を口にしました。その問いに答えるには、「それぞれの改革が、どんな危機に向き合っていたのか」を整理する必要があります。
この記事では、元禄期から幕末にかけての流れを、元社会科教師の視点でざっくりと整理します。詳しい政策の列挙は個別記事にゆずり、ここでは「時代背景」「目的」「結果」という3つの視点から、全体像をつかみやすくすることを目指しました。
このブログでわかること
- 三大改革が「何を変え、何を変えられなかったのか」を、元社会科教師の視点で整理します
- 江戸時代の三大改革(享保・寛政・天保)が、どんな矛盾や危機に向き合ったのか
- そこに田沼時代をどう位置づけると、江戸中期〜幕末の流れが見えやすくなるのか
元禄期から享保の改革・田沼時代へ(前提となる矛盾と初期対応)

17世紀末から18世紀初頭の元禄期は、徳川綱吉のもとで経済と文化が大いに栄えた一方、財政赤字や物価のゆがみといった矛盾も積み上がっていった時期でした。
華やかな元禄文化の裏側では、金銀鉱山の産出減や明暦の大火などが重なり、幕府の収入構造に陰りが見え始めます。
👉関連記事:徳川綱吉の生類憐みの令は悪法?教科書改訂で変わった真実
元禄期には、幕府領の年貢石高は増えていたにもかかわらず、年貢率の低下や米価安・諸色高といった現象により、財政収入が思うように伸びない問題が生じていました。
この「米の収穫量は増えているのに、米価が下がり、他の商品価格が下がらない」という状況は、「米価安の諸色高」と呼ばれ、18世紀初頭の政治課題となっていきます。
こうした矛盾に対する初期対応として登場したのが、8代将軍・徳川吉宗による享保の改革でした。

享保の改革は、幕藩体制の「崩壊を防ぐ」というよりも、「ほころびを修正し、体制をいったんきちんと確立し直す」ことを目的とした改革だったと考えられています。
吉宗は、上げ米令・定免制・株仲間や堂島米市場の公認、元文金銀の鋳造、目安箱の設置など、一連の政策を通じて財政再建と物価安定、そして幕府への信頼回復を図りました。
その結果、享保期には直轄領の石高・収入が一定程度増加し、「幕府中興の祖」と称される評価につながります。
しかし、経済発展の流れは止まらず、封建的な年貢米中心のしくみと商品経済とのギャップはむしろ拡大していきました。
18世紀後半になると、田沼意次が老中として登場し、商工業者を活用した重商主義的な政策によって、貨幣経済に対応しようと試みます。

田沼時代は、株仲間の奨励や営業税の徴収、長崎貿易の活性化、蝦夷地調査など、「商人資本」と手を結びながら財政再建を図った点が特徴でした。
賄賂・汚職の横行という負の側面もありましたが、戦後の歴史研究では「清濁併せ呑む革新的な政治家」として再評価されつつあります。
👉詳しくはこちら:享保の改革と田沼時代|徳川吉宗の政策を元教師が分析
👉関連記事:田沼意次は「悪人」だったのか?重商主義と経済改革の実像
寛政の改革|「幕藩体制の終わりの始まり」への対応

田沼時代のあとに登場する松平定信による寛政の改革は、「近世の終焉(幕藩体制の終わりの始まり)」に対応した改革と位置づけられます。
背景には、天明期の大飢饉や浅間山の噴火などによる凶作、一揆や打ち壊しの多発といった深刻な社会不安がありました。
寛政の改革では、囲米や旧里帰農令、農村復興策、旗本・御家人救済の棄捐令、人足寄場の設置などを通じて、農村と武士階層の立て直しを図りました。
同時に、寛政異学の禁や昌平坂学問所の整備によって朱子学を正統学問と位置づけ、政治批判の抑制や思想統制にも踏み込みます。
一方で、定信は田沼時代の重商主義的政策を「悪」とみなし、倹約と綱紀粛正を徹底したため、商品経済の発展にはブレーキがかかりました。
このことは、「白河の清きに魚も棲みかねて もとの濁りの田沼恋しき」という狂歌にも象徴されるように、庶民の不満の的にもなります。
それでも、寛政の改革が江戸幕府の崩壊を数十年引き延ばしたと評価する見方もあり、「幕藩体制の終わりの始まりをいったん食い止めた延命策」という側面をもっていました。
同時に、尊号事件などを通じて朝廷の政治的権威が強まり、明治維新へつながる「朝廷の復権」という流れが静かに進行した時期でもあります。
👉詳しくはこちら:寛政の改革と幕藩体制延命策──50年引き延ばした政治
天保の改革|内憂外患と改革失敗がもたらしたもの

19世紀前半になると、天保の改革期には「内憂外患」という言葉がふさわしい状況が本格化します。
国内では一揆や打ち壊しが頻発し、海外では西欧列強の接近による対外危機が現実味を帯びてきました。
この段階の危機は、享保期や寛政期とは質が異なり、「貨幣価値そのものの下落」や高インフレが深刻な問題となっていました。
文政金銀の改鋳による積極財政は、一時的な財源確保になった半面、物価高騰と社会不安を加速させてしまいます。
水野忠邦による天保の改革は、享保・寛政の改革を手本に「倹約と統制」で立て直そうとしましたが、時代状況はすでにそれを許さない段階に入っていたのです。
厳しい倹約令や株仲間の解散、人返しの法、上知令などは、封建的な枠組みに人々を戻そうとする試みでしたが、社会の構造変化に逆行する政策として反発を招き、多くが撤回や挫折に終わります。
結果として、天保の改革は幕府の権威を大きく損ない、長州や薩摩など雄藩が殖産興業や専売制などを通じて独自に藩政改革を進める契機となりました。
「幕府が時代についていけず、諸藩の側が商品経済を取り込んで自立化を強める」という構図が、やがて倒幕運動と明治維新の原動力になっていきます。
👉詳しくはこちら:天保の改革と幕藩体制崩壊への道を授業目線で読み解く
三大改革は何を変え、何を変えられなかったのか
三大改革と田沼時代をまとめて眺めると、共通しているのは「封建的な年貢米中心の経済」と「商品経済の発展」とのギャップに対する対応策だった、という点です。
享保の改革と田沼時代は、その初期段階での対応として一定の成果を上げましたが、経済成長の流れそのものを逆戻りさせることはできませんでした。
寛政の改革は、「近世の終焉」を前にした延命措置として、幕藩体制の寿命を数十年引き延ばしたと評価できます。
しかし、それは同時に商品経済社会への移行を遅らせることでもあり、結果として一層大きな矛盾を次の世代に先送りしたとも言えます。
天保の改革は、もはや戻れない段階に入った幕藩体制を無理に維持しようとした改革であり、その失敗は「旧体制の限界」を誰の目にも明らかにしました。
その一方で、雄藩の自立化や殖産興業の進展を促し、結果として明治維新へのエネルギーを生み出す皮肉な役割も果たしています。
よくある質問(Q&A)
Q1. なぜ田沼時代は三大改革に含まれないのですか?
A. 歴史研究や高校教科書では、田沼時代は「三大改革の一つ」ではなく、「享保と寛政のあいだの重商主義的な政治」として別枠で扱われることが多いからです。ただし、貨幣経済への対応という意味では、三大改革と同じ文脈で考える方が理解しやすいと感じています。
Q2. 三大改革の中で、一番成功したのはどれですか?
A. 財政的な成果だけを見ると、享保の改革が「幕府中興の祖」と呼ばれるだけの効果を上げました。ただ、「幕藩体制の終わりの始まりをいったん食い止めた」という意味では、寛政の改革を高く評価する見方もあります。
Q3. 天保の改革は、完全な失敗だったのでしょうか?
A. 幕府側の視点では失敗とされますが、その失敗がかえって雄藩の自立化や殖産興業を促し、明治維新へのエネルギーを育てたという評価もあります。「失敗が時代を前に進めてしまった改革」と見ることもできそうです。
コメント