こんにちは、なおじです。
江戸時代の三大改革の最後を飾る天保の改革は、「幕藩体制が本当に限界に来たときのあがき」として語られることが多い改革です。
飢饉・物価高騰・農村の疲弊に加え、外国船の接近という外圧も重なり、江戸幕府はこれまでとは質の違う危機に直面していました。
天保の改革が行われたのは、おおよそ1841年から1843年ごろで、江戸時代後期・天保年間の真ん中あたりにあたります。

その中で老中・水野忠邦(18世紀末に生まれ、19世紀半ばに亡くなった幕末前夜の政治家)は、人返しの法や上知令、株仲間の解散、倹約令など、社会を逆戻りさせるような強い改革を次々と打ち出しました。
しかし、その多くは農民・町人・大名らの反発を招き、短期間で挫折したため、「天保の改革=失敗」というイメージが現在まで強く残っている、と押さえておくと理解しやすいでしょう。
この記事では、天保の改革を「なぜ失敗したのか」だけでなく、「なぜそうせざるをえなかったのか」という視点から整理し直します。
教科書に出てくる有名な政策に加え、授業で生徒とどのような議論をしてきたかも交えながら、幕藩体制崩壊への道のりを一緒にたどっていきましょう。
この記事でわかること
- 天保の飢饉や物価高騰、外国船の出現が、なぜ天保の改革を必要にしたのか
- 人返しの法・上知令・株仲間解散など、天保の改革の具体的な政策とねらい
- 水野忠邦の改革が、なぜ「延命策」ではなく「失敗」と評価されるのか
- 三大改革の中で、天保の改革がどのような位置づけになるのか
天保の改革の時代背景と水野忠邦の基本姿勢
天保の飢饉・一揆と「内憂外患」の時代(事実)
天保の改革が行われたのは、江戸時代も後半に入り、農村と都市の両方が深刻な打撃を受けていた時期です。度重なる凶作と飢饉、米価や物価の高騰、百姓一揆や打ち壊しの多発によって、人びとの生活は追い詰められていました。
そこへ外国船の接近が相次ぎ、これまで「海の向こう」として意識されてこなかった外圧が目に見える形で迫ってきます。幕府は、国内の不安と対外危機という「内憂外患」の中で、統治の立て直しを迫られることになりました。
水野忠邦が目指した「立て直し」とは何か(考察)
水野忠邦の基本姿勢を一言でまとめるなら、「江戸時代の原点にもう一度戻ろう」という発想でした。農村を基盤とする年貢経済に立ち返り、都市や商業の膨張を抑えることで、幕藩体制を立て直そうとしたと考えられます。
人返しの法で都市に流入した人びとを農村へ戻し、上知令で江戸や大坂周辺の土地を直轄地にして財政を強化し、株仲間を解散させて物価統制をねらうなど、「元の姿に戻す」方向の改革が多く見られます。
そこには、急激に変化してきた社会にブレーキをかけたいという、幕府側の強い危機感が読み取れます。
授業でどう説明してきたか(教師経験)
授業では、まず黒板に「天保の飢饉」「物価高騰」「外国船の出現」という三つのキーワードを書き、生徒に「この状況で政治家なら何をすると思う?」と問いかけるところから始めてきました。
生徒は「物価を下げる」「困っている人を助ける」「軍事力を強くする」など、さまざまな意見を出してくれます。
そのうえで、水野忠邦が実際に行った人返しの法や上知令、株仲間解散のような政策を紹介し、「なぜこういう方向を選んだのか」「どこに無理があったのか」を一緒に考えていきます。
現代の政策と比べながら話すと、天保の改革が「過去への巻き戻し」を試みた改革だったことが伝わりやすくなります。
(実際は、教師が説明するより、生徒自身が調べ、話し合いを組み、自ら考えるような授業構成です。)
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具体的な政策と「幕藩体制崩壊への道」
人返しの法・上知令・株仲間解散などの政策(事実)
天保の改革で有名な政策としては、人返しの法・上知令・株仲間解散・倹約令などが挙げられます。人返しの法は、仕事や生活のために都市へ流れ込んでいた人びとを、元の村へ戻そうとした政策でした。
上知令は、江戸や大坂周辺の大名や旗本の領地を取り上げて幕府の直轄地にし、年貢収入を増やそうとしたものです。株仲間解散は、商人たちの組織を壊して、物価を抑えたり支配を強めたりしようとした政策でした。
これらに加えて、贅沢を禁じる倹約令や、風紀や文化を引き締めるための統制も進められました。
なぜ「延命策」にならず、反発を招いたのか(考察)
これらの政策がうまくいかなかった大きな理由は、「生活している人びとの実態」を十分に踏まえないまま、上から一気に元に戻そうとした点にあります。
都市で仕事やつながりを得ていた人にとって、人返しの法は現実離れした命令であり、大名や旗本にとって上知令は、突然の領地没収でしかありませんでした。
商人側から見れば、株仲間解散は、長年築いてきた商売の仕組みを壊されることを意味します。結果として、改革の対象にされた人々から強い反発を受け、改革そのものが短期間で頓挫してしまいました。
「延命策」のつもりが、かえって幕府への不信を高める結果になったとも言えるでしょう。
現代的な示唆と授業でのディスカッション(教師経験)
授業では、天保の改革を「社会が変わったあとに、無理に元に戻そうとした政治」として紹介してきました。
そのうえで、「今の社会で、もし同じように『元に戻せ』という政策が出たらどう感じる?」と問いかけると、生徒は急に自分ごととして考え始めます。
例えば、都市から地方への移住を強制されたらどうか、長年続いてきたビジネスモデルを急に壊されたらどうか、といった具体的な例を出すと、天保の改革の「いびつさ」が浮かび上がります。
そこから、「変化にどう向き合うべきか」「誰の立場から政策を見るべきか」といった、現代にもつながる議論へ発展していきます。
天保の改革の評価と歴史的位置づけ
同時代の反応と庶民の生活への影響(事実)
天保の改革は、倹約令や統制が厳しく、庶民にとっては「息苦しい時代」という印象を残しました。贅沢品や娯楽が制限され、衣食住の面でも細かい取り締まりが行われたため、人びとの生活は窮屈さを増していきます。
一方で、飢饉や物価高騰への対策としての側面もあり、短期的には一定の効果をあげた地域もありました。それでも全体としては、「世の中の流れに逆らった改革」として、あまり良い印象を持たれなかったと考えられます。
「失敗」とされる理由をどう見るか(考察)
天保の改革が「失敗した改革」とされるのは、政策の多くが短期間で撤回され、幕府の威信回復につながらなかったからです。
しかし視点を変えると、「これだけ追い詰められていたからこそ、ここまで急激な手を打たざるを得なかった」とも解釈できます。
なおじの見解としては、天保の改革は「崩壊を止める最後のあがき」でありながら、そのやり方がかえって崩壊を早める結果になった改革だと感じています。
変化を柔らかく受け止めるのではなく、力でねじ伏せようとしたところに、江戸幕府後期の限界がよく表れているのではないでしょうか。
三大改革の中での位置づけと授業での扱い方(教師経験)
三大改革をまとめて扱うとき、黒板には「享保=ネジ締め直し」「寛政=延命策」「天保=最後のあがき」と書いてきました。
生徒には、「同じ“改革”でも、時代が進むにつれて目的と性格が変わっている」ことを意識してもらうようにしています。
そのうえで、「もし天保の改革がもっと早く行われていたらどうなっていたか」「もっと別のやり方はありえたのか」という問いを投げます。
これによって、生徒自身が歴史を「結果だけで評価する」のではなく、「そのときの条件や選択肢の中で考える」習慣を身につけやすくなります。
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Q&A
Q1. 天保の改革は、結局まったく意味がなかったのでしょうか?
A. 完全に無意味だったとは言えず、飢饉や物価高騰への一時的な対策としての効果や、問題を「見える化」したという面もありました。
ただし、長期的には幕府の信頼回復や体制の安定にはつながらず、「失敗した改革」という評価が中心になっています。
Q2. なぜ天保の改革は、享保や寛政の改革のように高く評価されないのですか?
A. 享保や寛政の改革は、少なくとも一時的には財政や社会の安定に一定の成果をあげたとされています。
それに対して天保の改革は、反発を招いて短期間で多くの政策が撤回され、むしろ幕府の弱さをさらけ出す形になってしまったため、評価が低くなりがちです。
Q3. 人返しの法は、なぜ反発されたのですか?
A. すでに都市で仕事や生活基盤を築いていた人にとって、「元の村に戻れ」という命令は、生活を壊すことに等しいものでした。
村の側でも、人口が戻ったからといってすぐに生活が安定するわけではなく、現実離れした政策として受け止められたため、強い不満が生まれました。
Q4. 授業では、天保の改革をどう説明すると生徒に伝わりやすいですか?
A. 「社会が大きく変わったあとに、無理に元に戻そうとした改革」というイメージで説明すると、現代とのつながりも見えやすくなります。
「もし今、同じような“巻き戻し”政策が出たらどう思う?」という問いを投げると、生徒自身の言葉で考えが出てきやすくなります。