こんにちは、なおじです。
江戸時代の三大改革の中でも、寛政の改革は「近世の終焉」「幕藩体制の終わりの始まり」への対応として位置づけられることが多い改革です。
前回までに扱った享保の改革・田沼時代に続き、今回は松平定信がどのように危機の時代と向き合い、幕藩体制の延命を図ったのかを見ていきます。
天明期には飢饉・餓死・一揆・打ち壊しが頻発し、江戸幕府は社会の足元から揺さぶられました。その中で、定信は倹約・救済・統制を組み合わせた一連の改革を実行し、「江戸幕府の崩壊を50年引き延ばした」と評価されることもあります。

この記事では、教科書に出てくる棄捐令や囲米、人足寄場といった個々の施策を、「幕藩体制延命」という大きなテーマの下に整理し直してみます。
元教師として授業でどう説明してきたかも交えながら、寛政の改革の意味を一緒に考えていきましょう。
この記事でわかること
- 天明期の飢饉・一揆・打ち壊しが、なぜ寛政の改革を必要にしたのか
- 棄捐令・囲米・人足寄場など、寛政の改革の具体的な政策と狙い
- 松平定信が「田沼政治」と何を断ち、何を継承したのか
- 寛政の改革が「幕府崩壊をどこまで引き延ばしたのか」という評価のポイント
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寛政の改革の時代背景と松平定信の基本姿勢
天明期の飢饉・一揆と寛政の改革の開始(事実)
寛政の改革が行われたのは、1787年〜1793年ごろ、11代将軍・徳川家斉の時代です。その直前の天明期(1781〜1789年)は、江戸時代でも有数の危機の時代でした。
1783年の浅間山噴火をきっかけに冷害と凶作が続き、いわゆる天明の飢饉が発生します。東北や北関東では餓死者が多く出て、各地で百姓一揆や打ち壊しが多発し、社会不安が一気に高まりました。
この混乱のなかで、江戸の出版文化も大きなうねりにのみ込まれます。2025年大河ドラマ「べらぼう」で描かれる蔦屋重三郎らが、市井の声や風刺を本や絵で世に送り出しった時期と重なります。
一方で、政治の側では田沼意次の重商主義的な政策が進められていましたが、わいろや利権政治への批判が強く、天明の飢饉と重なって「田沼悪政」というイメージが固まりつつありました。
その結果、田沼は失脚し、蔦屋重三郎のような町人も統制の対象となるなかで、代わって松平定信が老中として抜擢され、寛政の改革に着手することになりました。
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寛政の改革が目指した「延命」とは何か(考察)
寛政の改革の目的を一言でまとめると、なおじの分析では「近世社会の大きな構造変化に対する延命策」です。
享保の改革が「幕藩体制の初発的危機」への対応だったのに対し、寛政の改革は「社会構造が本格的に変わり始めた段階」に対する対応だったと整理されています。
具体的には、飢饉・一揆・打ち壊しへの対策(囲米・旧里帰農令など)、武士・旗本・御家人の生活破綻への対策(棄捐令など)、都市の無宿人・非人対策(人足寄場など)、思想と情報の統制(寛政異学の禁・処士横議の禁など)といった政策を通じて、社会の暴発を抑えつつ、幕府の統治能力を回復することがねらわれました。
なおじの見解としては、寛政の改革は「経済的には救済色が強く、思想的には締め付けが強い」という二面性を持った改革だと感じます。ここに、「民を救いつつも、体制批判は許さない」という幕府の姿勢がよく表れているのではないでしょうか。
授業でどう説明してきたか(教師経験)
授業で寛政の改革を扱うとき、なおじはまず黒板に「天明の飢饉」「一揆・打ち壊し」「田沼失脚」というキーワードを並べてから、寛政の改革の話に入っていました。
生徒には「なぜ今、改革が必要だったのか」というスタート地点をしっかり押さえてもらうためです。
そのうえで、「棄捐令=札差を泣かせて旗本・御家人を救う政策」「囲米=今でいう防災備蓄」「人足寄場=職業訓練所+更生施設」というふうに、現代の制度にたとえながら説明していきます。
こうすることで、生徒たちも「単なる倹約だけの改革ではなかった」ことに気づきやすくなっていました。
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具体的な政策と「幕藩体制延命」の実態
棄捐令・囲米・人足寄場などの経済・社会政策(事実)
寛政の改革の経済・社会政策として有名なのが、棄捐令(きえんれい)・囲米・人足寄場・旧里帰農令・七分積金などです。棄捐令は旗本・御家人の債務を帳消し・軽減し、札差側に損失を負わせた政策です。
囲米は諸藩に社倉・義倉を設けさせ、飢饉に備えて米を備蓄させた制度です。旧里帰農令は都市に流入した農民を故郷に戻し、農村の再建を図ろうとした政策です。
人足寄場は無宿人や犯罪歴のある者を収容し、職業訓練と更生を行う施設であり、七分積金は江戸の町々に積立金をさせ、非常時の救済基金とした制度です。
これらは一見バラバラに見えますが、「飢饉への備え」「農村・武士・都市下層の安定」という共通のテーマでつながっています。
田沼政治との連続性と断絶(考察)
従来の歴史観では、「田沼=重商主義で悪政」「定信=農本主義で善政」という一張一弛史観が強く、寛政の改革は田沼政治を全面的に否定した「反動」として描かれてきました。
近年の研究では、寛政期にも田沼時代の商業政策の一部が引き継がれていることが指摘されています。
なおじの分析では、両者の違いは「どこを見るか」にあります。
田沼は商工業や貿易に目を向け、商人資本を積極的に取り込もうとしました。一方、定信は農村と武士と都市下層を立て直すことで、従来の幕藩体制を延命する方向に舵を切ります。
つまり、経済の一部では田沼期の遺産を利用しつつも、改革の主戦場を「商品経済の拡大」から「封建社会の基盤の再建」へと戻した、と見ることができます。
ここに、寛政の改革が「変化への適応というより、変化へのブレーキ」として働いた側面があると、なおじは感じます。
現代的な示唆と授業での議論(教師経験)
授業では、寛政の改革を「危機のときに政治は何を優先するか」を考える教材として扱ってきました。例えば、債務帳消し(棄捐令)は、誰を救い、誰に負担を押しつけたのかという問いを投げかけます。
囲米や七分積金のような備蓄・基金は、どこまで機能したのか、思想統制や出版統制は短期的な安定と引き換えに何を失わせたのか、といった問いを投げかけると、生徒たちは現代の経済政策や情報統制にも重ねて考えるようになります。
中学生には、すこし理解が難しいかもしれませんが、2025年の大河ドラマ「べらぼう」は、とてもよい教材になると思いました。
なおじの見解としては、寛政の改革は「崩壊を遅らせるための、ある種の我慢の政治」だったと同時に、「社会の底が抜けるのを必死に支えた政治」でもあったと感じています。
この二面性をどう評価するかが、歴史を学ぶ面白さの一つですね。
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寛政の改革の評価と歴史的位置づけ
同時代の反応と狂歌「白河の清きに魚も…」(事実)
寛政の改革は、倹約令や統制強化が強かったことから、庶民の間では必ずしも歓迎されませんでした。
有名なのが「白河の清きに魚も棲みかねて もとの濁りの田沼恋しき」という狂歌で、清廉な政治がかえって息苦しさを生んだという皮肉が込められています。
一方で、囲米や七分積金、人足寄場などの施策は、飢饉や治安悪化への一定の歯止めとして機能した面もあります。そのため、当時の人々の評価も「良いところも悪いところもある」という揺れを含んでいたと考えられます。
「50年の延命」説をどう見るか(考察)
歴史学者・三上参次は、著書『白河楽翁とその時代』の中で「寛政の改革は江戸幕府の崩壊を50年引き延ばした」と評価しました。これは、近世末期の危機に対して、定信の改革が一定の延命効果を持ったという見方です。
一方で、商品経済の発展や対外危機の深刻化という大きな流れを止めることはできず、「変化の方向性そのものを転換することはできなかった」という批判もあります。
なおじの分析では、体制を守ることを優先したがゆえに、変化のエネルギーが幕府の外側に蓄積され、後の明治維新につながったという見方も成り立つのではないかと感じています。
三大改革の中での位置づけと授業での扱い方(教師経験)
三大改革をまとめて扱うとき、なおじは次のようなイメージ図を黒板に描いてきました。享保の改革は初発的危機への「ネジ締め直し」、寛政の改革は近世の終焉への「延命策」、天保の改革は内憂外患の中での「最後のあがき」です。
こう整理すると、寛政の改革は「中間地点で踏ん張った改革」として位置づけられます。
授業では、「もし寛政の改革が無かったら、江戸幕府はもっと早く崩れていたかもしれないね」という話をしつつ、その一方で「変化を先送りしただけ」という見方も紹介し、生徒に自分なりの評価を書いてもらうようにしていました。
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Q&A
Q1. 寛政の改革は、結局成功だったのでしょうか?
A. 飢饉や一揆・打ち壊しの多発という天明期の危機をある程度和らげ、幕府の統治を立て直した点では「一定の成功」と評価されています。一方で、経済の構造変化や対外危機といった長期的な問題を解決できたわけではなく、「延命策にとどまった」という指摘もあります。
Q2. 寛政の改革は、田沼政治を完全に否定したのですか?
A. 思想・文化面では出版統制や異学の禁などで「自由な風潮」にブレーキをかけ、田沼時代を強く批判しました。ただし、経済面では商人や豪商との連携が一定程度続くなど、田沼期との連続性も指摘されています。
Q3. 棄捐令は誰のための政策だったのでしょうか?
A. 表向きは旗本・御家人など借金に苦しむ武士の救済策で、実際に多くの武士が債務から解放されました。しかし、その負担は札差などの金融業者に集中し、経済の別の部分に歪みを生んだという問題もあります。
Q4. 授業では、寛政の改革をどう説明すると生徒に伝わりやすいですか?
A. なおじは、「社会が大きく揺れている中で、江戸幕府があとどれくらい持ちこたえられるか」をテーマにすると伝わりやすいと感じています。「延命に成功したのか、それとも崩壊を先送りしただけなのか?」という問いを最後に投げると、生徒なりの考えがよく出てきました。