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享保の改革と田沼時代とは何か?徳川吉宗と田沼意次の経済政策を元社会科教師なおじが整理

こんにちは、なおじです。

江戸時代の三大改革の中でも、前半を担ったのが享保の改革と、その後の田沼時代です。 どちらも財政難と社会の変化に向き合った政治でしたが、アプローチの仕方はかなり違っていました。

なおじが中学の教室でこのあたりを教えると、生徒からはいつも「吉宗は良い将軍で、田沼は悪い政治家なんですよね?」というストレートな質問が飛んできました。 しかし、歴史研究の流れを踏まえると、そんな単純な二分法では片づけられないことが見えてきます。

この記事では、元禄期から享保の改革、そして田沼政治までの流れをたどりながら、二つの改革が「何を目指し、どこまで成功し、どんな課題を残したのか」を整理していきます。

徳川吉宗
徳川吉宗

この記事でわかること

  • 享保の改革が登場した背景と、徳川吉宗が目指した幕府再建の方向性
  • 田沼意次が進めた商工業・貿易重視の政治と、その長所・短所
  • 「吉宗=善政」「田沼=悪政」というイメージが見直されてきた理由

👉関連記事:江戸時代の三大改革とは何か?享保・寛政・天保と田沼時代の流れを元社会科教師が解説

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目次

享保の改革の時代背景と政策の実像

元禄期から享保期への流れ(事実)

享保の改革を理解するには、まずその少し前の**元禄期(1688〜1704年ごろ)**にさかのぼる必要があります。 この時代は徳川綱吉のもとで経済と文化が大いに栄えましたが、その裏で財政赤字と物価のゆがみが進行していました。

幕府領の年貢石高は、17世紀後半から18世紀初頭にかけて増加していきます。1650〜60年代には実収入280〜290万石だったものが、1680年には380〜390万石、享保直前には400万石、改革の最中には450万石に達したとされています。

にもかかわらず、年貢率の低下や金銀鉱山の産出減、明暦の大火などの影響で、実際の財政収入はそれほど伸びませんでした。

ここで問題になったのが、米価安の諸色高と呼ばれる現象です。

米の生産量が増えて米価は安くなる一方で、他の商品価格はなかなか下がらず、物価のバランスが崩れてしまったのです。 こうした状況を前にして、8代将軍・徳川吉宗が享保の改革に着手します。

👉関連記事:徳川綱吉の生類憐みの令は悪法?教科書改訂で変わった真実

享保の改革は何を目指したのか(考察)

享保の改革の目的を一言でいうなら、なおじの分析では「幕藩体制のネジ締め直し」です。

まだ「体制崩壊を食い止める」という段階ではなく、「一度ゆるみかけた枠組みをきちんと確立し直す」ことが主眼だったと見る方が実情に近いでしょう。

吉宗は【上げ米令】によって大名一人ひとりに財政負担を求め、新田開発奨励や定免制・有毛検見法によって年貢制度の安定化を図りました。 同時に、株仲間や堂島米市場を公認し、元文金銀の鋳造によって通貨と物流の安定を目指します。

こうした政策は、現代でいえば「緊縮財政と金融政策、制度改革を組み合わせた総合パッケージ」のようなものです。

その結果、享保期には一時的に直轄領の石高と収入が増加し、吉宗は幕府中興の祖と呼ばれる評価を得ました。 ただし、商品経済そのものの発展は止まらず、長期的な構造問題が解決されたわけではありませんでした。

授業でどう教えてきたか(教師経験)

元教師の経験から言えば、享保の改革を「第一段階の危機対応」として説明すると、生徒の理解がスムーズでした。 黒板に元禄期から天保期までの時間軸を書き、「ここで最初に赤ランプがついたのが享保」と示すと、三大改革全体の位置づけがつかみやすくなります。

授業では、数字が苦手な生徒にもイメージしてもらうため、「年俸は上がっているのに、出費も増えて貯金がたまらない家計」という比喩をよく使いました。

享保の改革は、その家計で「無駄遣いを減らす節約」と「家計簿のつけ方や予算配分の仕組みを見直す」という二つの対策をとったようなものです。

ただし、根本的な「働き方そのもの」までは変えていない、というイメージになります。

田沼時代の経済改革と再評価

田沼意次
津沼意次

田沼意次の政策と時代状況(事実)

享保の改革から数十年後、18世紀後半に登場するのが老中田沼意次です。

彼は比較的低い身分から出世し、9代将軍家治のもとで政治の実権を握りましたが、その時代背景には、引き続き財政難と商品経済の拡大がありました。

田沼は、商工業者を積極的に活用する【重商主義的な政策】を展開しました。

株仲間の結成を奨励して特権を与え、その代わりに営業税を課すことで、幕府の収入を年貢米だけに頼らない構造にしようとしたのです。

また、長崎貿易では銅の専売制や俵物の輸出拡大を進め、蝦夷地調査や印旛沼堀割工事など、流通・開発に目を向けた施策も行いました。

こうした政策の結果、商工業は活発になり、自由な風潮のもとで学問や芸術も発展したとされています。 しかし同時に、地位や特権を求めてわいろが横行し、戦前の歴史観では「金権腐敗の政治」として厳しく批判されてきました。

👉関連記事:田沼意次は「悪人」だったのか?重商主義と経済改革の実像

田沼政治はなぜ「悪名」が先行したのか(考察)

なおじの見解としては、田沼意次の悪名には政治的ライバルたちの評価と、後世の物語化が大きく影響していると感じます。

明治期の三上参次は、松平定信を理想的な政治家として描く一方で、田沼を賄賂と汚職の象徴として対比的に描き、その図式が長く教科書や一般書に影響を与えてきたのです。

戦後になると、辻善之助『田沼時代』などの研究で、「確かに汚職はあったが、積極的な経済政策を行った革新的な政治家」として再評価する流れが出てきます。

重商主義的な政策は、封建的な年貢経済から商品経済へ移行しつつあった時代において、むしろ時代に合った方向性だったと見る研究者も少なくありません。

一方で、田沼時代は天明の大飢饉や浅間山噴火による凶作など、不運な自然災害にも直面しました。 その結果、一揆や打ち壊しが多発し、政治不安が強まったことも事実です。 こうした状況が、「田沼=悪政」というイメージをさらに強めたと考えられます。

授業・大人向け講座での伝え方(教師経験)

授業や大人向けの講座で田沼意次を扱うとき、なおじは必ず**「二枚目の田沼像」**を紹介するようにしてきました。

ずは教科書的な「賄賂も多かったが、商工業重視の政治を進めた」という説明をしたうえで、「もし田沼の政策が、飢饉や噴火のない時代に行われていたら、評価は違っていたかもしれませんね」と問いかけました。

このとき、生徒たちには「政治家の評価は、あとから生まれた物語に影響されやすい」という視点も伝えます。

歴史を学ぶうえで、評価の背景をたどること自体が、大事な学びになるからです。 大人向けの講座でも、「田沼再評価」は毎回盛り上がるテーマで、「イメージだけで判断していたかもしれない」という声をよくいただきます。

享保の改革と田沼時代をどうセットで見るか

二つの改革の共通点と相違点(事実+整理)

享保の改革と田沼政治には、共通点と相違点の両方があります。

共通しているのは、どちらも財政難と社会変化に対応しようとした**「危機対応の政治」**であったことです。

一方で、吉宗は主に年貢制度の改善と倹約を通じた「枠内の調整」を重視し、田沼は商工業や貿易を活用した「枠組みの拡張」に踏み出したという違いがあります。

享保期は、高尾一彦らの整理では「幕藩体制の初発的危機への対応」とされています。 それに対して田沼期は、商品経済の発展がさらに進み、従来の枠組みでは対応しきれなくなりつつあった段階です。

つまり、同じ危機でも、「初期対応」と「構造転換を迫られる段階」というズレがあると考えられます。

なおじの分析:なぜ「セット」で捉えると理解しやすいか(考察)

なおじの分析では、享保の改革と田沼時代を「ディフェンス強化とオフェンス強化」のセットとして捉えると、全体像が見えやすくなります。 享保は守備を固めて失点を減らすイメージ、田沼は攻めに出て得点源を増やすイメージです。

この二つを切り離してしまうと、「吉宗=善、田沼=悪」という単純な図式に流れがちです。

しかし、危機の段階や社会の変化の度合いが違うことを踏まえると、「同じ問題に対する二つの異なるアプローチ」として見えてきます。

その結果、寛政の改革や天保の改革も、「その前段階で何がどこまでできていたのか」という視点で理解しやすくなるのです。

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現代社会・学校現場への応用(教師経験)

元教師の立場から見ると、享保と田沼の話は、現代の財政政策や経済政策を考える教材としても使えます。 例えば、「増税と制度見直しで乗り切ろうとする政策」と、「経済成長や新産業に賭ける政策」の違いを考えるきっかけにできます。

授業では、「あなたが当時の老中なら、どちらの路線を選びますか?」という問いを投げかけ、生徒に簡単な理由を書かせていました。

一人ひとりの判断を聞くことで、歴史を「過去の出来事」ではなく、「自分ならどうするか」を考える場に変えられるのが、このテーマの面白さだと感じています。

Q&A

Q1. 享保の改革と田沼時代は、どちらが成功したと言えますか?

A. 享保の改革は、直轄領の石高と収入を増やし、幕府への信頼をある程度回復させた点で「一定の成功」と評価されています。 田沼時代は、重商主義的な政策で経済の活性化を図りましたが、飢饉や災害、汚職の問題も重なり、評価が割れているのが実情です。

Q2. なぜ教科書では「吉宗が善、田沼が悪」というイメージが強かったのですか?

A. 明治以降の歴史書で、松平定信を理想的な政治家、田沼を金権腐敗の象徴として描く流れが強かったためです。 その評価が教科書や一般書に長く影響し、「善政と悪政の対比」として理解されてきましたが、戦後の研究では田沼再評価が進んでいます。

Q3. 田沼意次のどの点が現代的だといえますか?

A. 株仲間の奨励や営業税、貿易振興など、商工業や市場経済を積極的に活用しようとした点は、現代の経済政策にも通じる発想です。 一方で、透明性の低さや汚職の問題は、現代の政治にも通じる課題といえるかもしれません。

Q4. 授業では、享保と田沼をどのように説明するとわかりやすいですか?

A. なおじは、享保の改革を「ディフェンス重視」、田沼政治を「オフェンス重視」とたとえて説明してきました。 両方とも財政難に対応しようとした点は同じですが、守り方と攻め方が違う、という整理にすると、生徒にもイメージしやすいようでした。

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