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「前九年の役」で陸奥進出をねらう源頼義に対し、安倍軍の中心人物として立ちはだかる奥州藤原氏の祖 藤原経清
奥六郡は、元々は蝦夷(えみし)の居住地と言われます。その長が安倍氏でした。安倍前総理はこの安倍氏の末裔に当たります。(頼時三男の安倍宗任は降伏して一命を取り留め、平家方の水軍として活躍。平家滅亡により山口に流罪となり山口安倍氏となります。 -
源頼光とは?金太郎と鬼退治で有名な源満仲の長男が摂津源氏の祖になるまで
本稿のポイント 佐竹氏の祖となる源義光は、常陸平氏と深く縁を結ぶことができた。その遠因はおじいちゃんである源頼信の活躍にあった。 満仲の3人の子らは、どうやって源氏の力を高めていったのか。 満仲の後を継ぐ、長兄源頼光 源満仲には3人の男子... -
新羅三郎義光の遠祖、源満仲はどうやって武家としての地位を確立したのか
武家として、900年生き残れた家は、数えるほど。岩手の南部家、宮城の伊達家、山口の毛利家、鹿児島の島津家、そして、佐竹家。どうして900年命脈をつなぐことができたのでしょうか。 -
北畠親房と結城親朝の考え方の違いが招いた、板東における北朝の勝利
尺八を吹く武将 -
神皇正統記の著者 北畠親房の息子、南朝の支柱北畠顕家,石津の戦いで 死す
北畠親房の子、北畠顕家の動向を中心に延元年間中の1336から1338の南北朝の戦いの様子について -
北畠親房、「こいつはやばい奴だ」と尊氏をののしる
畠山親房は安倍晋三元首相と同じ67年の生涯を送りました。そのうち6年間を常陸で過ごしています。親房はなぜ常陸に来て、なぜ神皇正統記を書いたのでしょうか。 -
鎌倉時代の源氏と平家の戦い:佐竹氏の平家との結びつきと頼朝の戦略的背景
佐竹氏は,なぜ同じ源氏の頼朝を敵にしたのか。佐竹氏は源氏だが,大掾平氏との関わりが強い。常陸を含む板東では,源氏・平氏の氏を超えた連携と対立が生まれていた。 -
水戸学とは?弘道館記述義が教える日本らしさの本質【最終回】
弘道館記は、491文字の簡素な文章でしたので、斉昭は、「これを詳しく解説せよ」と藤田東湖に命じました。東湖は、再三辞退しましたが最終的に承諾し、十年の年月をかけ「弘道館記述義」を完成させます。 -
維新の源流としての水戸学NO9(弘道館記を書いたのは誰か)
弘道館は、一番最初に出来た藩校ということでも、藩校の中で一番大きかったと言うわけでもありません。 弘道館は、水戸学の中心だったという理由で全国で有名になった藩校です。 -
会沢正志斎『新論』が幕末志士の心を揺さぶった理由|水戸学第8回
新論は1825年に書かれています。出来上がった当時は、藩主斉脩(なりのぶ)によって、公刊を差し止められていました。